保護中: 9月振り返りと10月のイメージを一緒に作りましょう!*シ組ワーク

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偉そうな人に惑わされることなかれ。

2回ほど、ライブハウスの店員さんに

馴れ馴れしい態度で評価を受けたことがある。

(20年近くやっていてそれくらいしかないのもあれだが)

どちらも歴史あるライブハウスと言われているもので

(しかしどこだったかの名前は忘れてしまった)

そこでやるのは光栄なことらしいけれど

私は不快だったのでその後は一度も出ていない。

 

無礼な人間というのが私にとっては人間の中で一番不愉快な部類に入る。

歴史があるのはライブハウスの方で

そこにいる人間ではないだろう。

むしろその歴史を汚しかねないのではないか、と思った。

 

昔は「ライブハウスのスタッフが演者を指導する」みたいな

ものがあったらしいけれど、これも私の一番嫌な部類のものだ。

「相手を想って」という所が傲慢である。

それが好きな人間はそこで集まっていればいいし

私のようにそれが嫌な人間はそういう集まりにはいなければいい。

たまに事故のように両者が出会ってしまう時もあるけれど

その時はことを荒立てず、お互いさっと離れればそれですむ。

 

歴史があるから偉そうにしていいとか

金持ちだからとか、成功しているからとか、本当にくだらない。

誰が決めたかもわからない定義に縛られて

それがたいそう立派なことだと信じ込んで

その上であぐらをかいている人間は恥ずかしいなと思う。

 

下妻物語でも言っていたけれど

ロックでも不良でも、社会のしがらみが嫌で抜け出したのに

結局そのロックや不良という社会の中のルールを自分達で作って

その中でがんじがらめにされている人たちは結構いる。

 

私は上下を決めて縛り合う環境が好きではなく

そういうものに自分を騙して乗っかることが利口だとも思わない。

全ての人間が自由に自分の意思で自分の人生を決める権利があると思っている。

もちろん社会の中にはそれを許さない場所もある事は知っている。

けれど誰かが自分の心を殺して犠牲にならなければ成り立たない場所なんてのは

そもそも消えて無くなった方がいいと思っている。

その場所を変えていくための運動をする人もいれば、そこから抜け出す人もいる。

そこにい続ける人もいる。

結局はその人のする選択なので、私は私の気持ちをいうまでだ。

 

ライブハウスでいうと、

経営者、店員、音響、照明、演者、客。

誰がひとり欠けても成り立たない。

誰がえらいとかじゃない。

みんながみんなに対して平等に尊重しあうことが当然だと思っている。

自分の仕事を全うする、それだけだ。

 

人間はひとりになったらなんにもできない。

そんな事を忘れて偉そうにする人間がいる。

私はそういう、上から目線で頼んでもいないのに

人間を指導しようとする人間には怒りにも近いものを覚える。

傲慢だからというのもあるけれど

私のように、そういう人間をはなから相手にしない人間ならまだしも

そういう人間の言うことを真に受ける人がいるからだ。

真に受ける人間というのは、

たいてい自分に自信がなくて

そして優しくて気遣い屋で繊細な人だ。

そういう人間の心に土足で入っていく。

そうしたらどうなるか。

その真に受けた人間というのは傷つくし動揺もするし

その人の言うことができていない自分はダメなのだと思い込むようになる。

そしてさらに自分に自信を失くす。

ポッとでの人間の発言を真に受けるなんてしなくてもいいのに。

真に受けたところで責任なんかとっちゃくれないのに。

だから声のでかい人間、責任も取らないくせに偉そうにする人間に対して

怒りのような感情を抱く。

罪深い行為をしていると感じる。

 

人の自由に発想する気持ちを奪うような行為

奪うだけでない。

偉そうな発言というのは相手に威圧感を与える。

トラウマを与えたかもしれない。

それ以降もっと自分の気持ちを抑え込むようになってしまったかもしれない。

影響がその場だけでは終わらない可能性があるところが

とても罪深い行為だと私は思っている。

 

だからどうか、そういう行為に傷ついた人が今これを見ているとしたら

自分の心を抑え込んだり自分がいけないのだと思わないでほしい。

自分が思うことをし、してみたいことをし、

まだまだだと思った時にはそれを直し、また挑戦すること。

そういう自発的な行動が何よりも大切なことだ。

他人の心無い言葉などは真に受けるに価しない。

それが一見「あなたのためを想っている」ようにみえたとしても

そういう手口にはまらなくていい。

あなたの人生はどんな人間もコントロールしていいものではない。

それを許可してはならない。

それを許して他人をどんどん自分の中にいれていると

自分がどんどんなくなっていって自分がわからなくなってしまう。

あなたの正解は他人が握っているものではない。

 

人間だれしも自分の人生しか生きられない。

それは一回の人生の経験しかないということだ。

それはどんな人間だって同じことで

だからこそ他人の話を聞くことは大事とも言えるけれど

逆にいえば相手の話すことだって

相手の一回きりの人生で感じた感想程度でしかないとも言える。

そのバランスを崩さない。

相手から学びたいと思えることは吸収しても

全てを真に受ける必要なんてない。

私もあなたも相手もたかがひとりの人間にすぎない。

 

私がたまにギャグとしてよくやることなんだけど(これはめちゃくちゃ失礼なこと)

相手が話をしているときに

心の中で「うるへー」「どうでもいいー」と

鼻をほじりながら言っている時がある。

これは多分子供の頃から好きなちびまるこちゃんの影響なのだけど

そして当然失礼なのでそれを相手に対してはしてないのだけど(自分の中だけで遊びでやってる)

これくらいどうでもいいような気分でいるという事も

わりかし大切なのではないかと思う。

人生を深刻にとらえすぎない、というか。

 

私の中で、人生は経験とそれを楽しめることが一番だと思っている。

楽をすることではない。楽しめることだ。

真に受けすぎると、深刻になりすぎると、人生は重くなる。

でも、私もあなたもたかだかひとりの人生だ。

あなたが私をみて、私の失敗談を聞いた時に、おそらく普通に聞けるように

(フォローのひとつでもいれてくれるかもしれない)

あなたの失敗談もまた、私からみれば笑い話程度に感じるかもしれない。

それくらい、俯瞰してみると自分の人生というのは本質的には意味が存在しないし

重たいとか軽いとかもない。ただここに今あるだけだ。

意味づけるのは自分だ。

自分でした意味づけに自分が苦しんでしまっては本末転倒だ。

 

そのひとつの人生を少しでも良いなと満足がいくように仕上げること。

その中で自分の失敗やくだらなさを受け入れる余裕も持たせていくこと。

そうやって自分の人生を、自分自身がある日は友達になったり

ある日は先輩になったりして優しく声をかけて少しずつ歩みを進ませる。

そこに、心無い人の存在なんて必要ないのだ。

あなたがあなたをどうしてあげるかが、一番重要なことだ。

心無い人は心無い人でそうなってしまった要因があるかもしれない。

だからそこをむやみに責めたりすることはしない。

私は行為を否定しているわけであって

その人自体を否定しているわけではないことを、わかってほしい。

 

自分の人生に誰をいれ、誰を排除するかは、自分が決めていいものだ。

それが自分の人生に対する責任だと思っている。

 

お金があってもなくても、肩書きがなんだろうが、

SNSのフォロワーが何人だろうが、友達がいようがいなかろうが、

どんな人間だとしても、上下で人間を見るのはおかしい。人は平等だ。

人間の社会が勝手に決めたことに踊らされて一喜一憂するのは虚しいことだ。

そこには何もない。

人間は、どんな人間でも、ただの人間だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

自戒の念も込めて。

 

 

現場にて学ぶ。

モーニングがてらおはなしの脚本書きに。

やはりすごく捗る。

そしてその後で今日はとっても天気が良いとの情報だったので

九十九里に録音しにいってきました!

コペンちゃんも動かしたかったし。

が、失敗!!!!!!

いやぁ、天気と身近な場所の風だけじゃ足りなかったです。

 

着いたらもう波の音聞こえないんじゃないかってくらい爆風で。

サーファーの方が沢山いらしたのでそりゃ波も激しいわ。

開けすぎてるのも風を通す原因なんでしょうかね。

場所も良くなかったし(海自体は最高なんだけど、録音環境として)

あとは現場の風速がいくらかというのも見てなかったし

これはでも現場に着いて初めて気づいた学びだったので

足使って学ぶって大事だわ、とも思った。

 

なので次は九十九里よりももっと下の方で

穏やかで有名な場所に行ってこようと思います。

ここ数年の私の中のベストスポットが

静岡と神奈川の間なんですが

千葉からだとめちゃ遠いので

千葉県内で(せっかく住んでるし)ベストスポットを

見つけたいと思っております。

 

しかしこの日はこの日で録音は諦めて

撮影などをしたり作ったおむすびを食べたりして楽しみました。

愛を前に欲望は消えるのか

自分の利益が絡むところに愛は存在しない

思い描く理想はいつでも表現することができる

私が作り出す世界

その中に溺れるように浸るような瞬間

それが私の快楽

 

愛の前に欲望は消滅する

醜さ狡さ汚らわしさが渦巻き嵐のように去ったあと

それらのどれも一切入る余地を失くす

嵐のあとは浄化された愛だけが残る

全てを洗い流したあとに 残るものがある

それを見極められないものは

自分の利益ばかりに固執する

秋だね。

人が考えるものがその人であり

人が選ぶものがその人である。

実家暮らしと変わったのは

毎日食べるものを自分で選ぶことだ。

実家では母が買ってきて料理してくれた。

出されたものを食べていた。

実家を出てからは

自分が何を買い、何を作るかの選択をするようになる。

これも大事な選択だ。

どうせなら旬のものを味わいたい。

今日は秋鮭とじゃがいものバター炒めと

食後には梨を買ってきた。

フルーツなんてよっぽどお金に余裕がないと

買えないよね、なんて思っていたけれど

そんな事もないな、と今は思う。

食べる必要性(楽しみとか体に必要とか)を

自分で感じているなら

それは買うし買った方がいいな、と思った。

必要だと思うものはやった方が面白い。

秋はね、涼しくなってきて

東洋医学では悲しみが増す季節なんだって。

だから今悲しいなとか不安だなって思ってても

それは季節の変わり目のせいだから

自分が悪いわけではないのだよ。

そういう時は、季節をゆっくり味わおう。

自分の心ばかりを見て物足りなさを感じる時は

自分以外の景色やモノを味わおう。

そして早く眠ろう。

面白がれないなら自分をいじめないことさ。

昨日はなんだか咳が出ていたのだけど

梨は空咳に効くらしく

今日は出なくなってたな。

そんな早く効くもんか?笑

しかし気は大切だからな。

騙されてる方がいい時もあるってもんだ。

歩いた分だけ自分の道になる。

私が自分に対して今のままではだめだ、と思う時が多いのは

次にはどうしたいかが見えているからだ。

今で満足ということは一生ない。

けれど今が不満足、という事を思っているわけでもない。

足るを知りながら進化を求める。

 

人生はなんのために存在していると思うかい。

それはひとりひとりの答えが存在しているから

どの答えであっても構わないものだ。

命は望みもしないのに始まり終わっていくものだから

そこに意味はない。

意味をつくるのは考える人間がすることだ。

人生はなんのために存在していると思うかい。

私は自分に与えられた役割を全うするために存在していると思う。

役割のために人生を使い切る。

自分に与えられた役割以外の余計なものを

どれだけそぎ落としていけるか。どれだけ捨てることができるか。

自分の純粋を見つけてそれを全開にして生きていくこと。

他人にコントロールを任せないこと。

他人のことばかり考えてる人間がいるけれど

他人の人生に半分足を突っ込んでいるようなものだ。

それは他人にとっても迷惑な話だし

自分の時間を無駄遣いしている。

自分に集中する。

自分の中にこそ答えがあり

それを輝かせることこそが

自分以外の誰かのためになる可能性がある。

馬鹿にならなければ歴史は変えられんという台詞があった。

あれは日本の歴史のことを言っていたけれど

自分の歴史についてもそうだと思う。

自分の歴史は馬鹿にならなければ変えられない。

馬鹿になるとは、半端をやめることだ。

恐れがある限り、馬鹿にはなれない。

青を呼んでいる。

撮っていた写真をスクロールしていたら

青が沢山ある箇所を見つけて

心が洗われる気持ちがした。

来週は晴れ間が出てくれるかな。

海の素材をとりにいきたい。

青に心を溶かす。

でも今日みたいな雨の日も

嫌いなわけじゃなくて

歩いている途中で

雨粒を乗せて重そうに首を垂れる

花の姿を見れたりする。

雨粒もよく見るとビー玉のようで綺麗だな。

周りの景色を写している。

脳みそフル回転したらさ

自然の中に自分を溶かす。

自分は世界の一部だと感じる時間。

気負わない時間もあるから

気負うのも楽しめるもんだ。

有を味わい尽くすから

無に浸れることができる。

どんな状況も楽しんでやるつもりで

自分から乗っかってやるのさ。

地道が近道

中旬も過ぎてこれくらいの時期になると

手紙の作業が始まる。

制作は上旬・中旬に行なっているのだけど

中旬以降は発送作業にうつる。

宛名も、焼きも、封入も、スタンプ押しも、全てひとつひとつやっている。

 

お願いしているのは印刷と、

しょへにはデザイン&入稿とミックス作業。

印刷会社と、しょへと、私の、すごく少数で手紙は作られている。

 

私は作曲と録音と詩の制作と発送作業をやっているので

割合的には多いのだけど

でもこれが毎月の役割として

しかも「今月はこれが良くなかったから来月はこうしよう」という

課題とそれの対処したものを毎月繰り返して

少しずつ「あぁこれなら良さそうだな」っていうものが見えてきたり

まだまだ課題だなと思うところもあったり

そういう事を1ヶ月という短いタームの間で繰り返すから

とっても学ぶことが多い。

 

シギの他の楽曲や絵画の事をしていて感じたことが

手紙に影響されたりその逆もしかりで

やはりこうしてダイレクトに毎日まわしていくっていうことが

地道だけどそれが一番確実な道なんだよなって感じる。

 

こうして自分の頭と実際の作業で感じる事を続けながら

少しずつ自分が納得するものに近づけていく。

「あぁそうそうこれこれこれ」みたいな。

自分が欲しいものが本当はあって

それを見つけにいくかんじといったらいいかもしれない。

 

私にとって手紙という場所はすごく貴重な経験の場所になっているし

こうした私の毎月の行いというものを受け取ってくれる人たちがいることに

すごく幸せを感じている。

そうそう、数ヶ月前から離脱する人が1人もいない状況になっていて

なんだか異様な心地がしている。笑

みんなが静観してこの場所を作っているような感覚。

販売再開していないけど、手紙参加したい人いたりするかな。

 

いつかこの曲達を集めたライブをして

同じ手紙という体験をしている人たちがそこに集まって

その曲たちだけを歌ったライブをしたい。

全ての秋

本日も洗濯物を干そうとしたら猫ちゃんがおやすみしてた。

ので起こさないようにそーっと干した。

これは前回屋根にいた猫ちゃんと同じだな。平和でなにより。

 

今日はいきなり運動をしたくなった。

ひとりでは部屋の中で地味に運動をしているのだけれど

今日のはそういうことじゃなくて

人と一緒に勝ち負けの運動したくなった。スポーツ?

でもフットサルとか野球とかはできないから

何ができるだろうか。バトミントン?

人と運動したいなんて思ったことほぼないぞ。

今なら誰よりも運動会を楽しめる気がする。

玉入れしたい!

私の身近な人だと

本当に運動しなさそうな人か

むしろ運動を職業にしている人かの二極だ。

なんてアンバラナンスなんだ。

運動の秋・食欲の秋・芸術の秋。

今年は三つともやっちゃいたいな。

自分を信じるに値する行為をしていくこと。

「私ってこういう人間だから」と自分にいうと

「だからそれはやれない」という制限につながりやすい気がしていて

それよりも「今の私はどう感じてるか」「今の私はどんな風か」という風に

「今」に焦点をあてて考えると

なかなか今の自分仕様な感覚を自分でつかみやすくなるなと思った話。

 

今日はお墓まいりにいってきた。車も洗ったし色々ぴかぴか。

片道50km近い道のりを、行きは洋楽、帰りは邦楽を流しながら。

昔好きでよく聴いていた音楽をかけていて

「自分の役割を演じられないやつはくずだ」という一節があり

それがすごくおかしかった。私好きそうだなーって。

車と音楽の相性は最高だなぁ本当。

 

その音楽を聴いてた頃はまだ膜の中でうだうだしていて

今の私があの頃の自分に声をかけるなら

なんて言葉を言うかななんてことを考えた。

 

「君は自分の人生に集中するのにびびってめんどくさがって

恋だなんだの刺激で暇つぶしして自分をごまかして

問題を見ないようにしてるよなあ。いい加減自分のことに集中しろよ」

と言うだろう。

そしたら昔の私は

「それはそうだけどそれはそうだけど、でも良い曲かけるんだよ?てへぺろ」

とか言いそう。

それに対して私は

「知らん。空想を生きるな、現実を生きろ。」

そう言うと

「だってどうしたらいいかわからないんだもん」

と言いそう。

「自分のしょぼさとだらしなさくだらなさを見つめなさい。

そうすると周りがしてくれてた事がよくわかる。

一回くそほど落ち込んでそのあとで冷静になってきたら

ただ今のしょぼい自分なりにできることが見えてくる。

その頃には自分を受け入れる余裕もできてきているから

あとはできることを楽しんでやってらっしゃい。

思いっきり好きにやっちゃいなさい。」

 

でも人生に無駄はないから、とフォローする人もいそうだけれど

私は私に対してはそうは思わない。

自分をごまかしてる時間なんて多いだけ無駄に決まっている。

きつく言えるのは

自分の可能性はそんなみみっちくびびってる所でとどまるものじゃない

と今の私が昔の私に対して言えるからで

だからフォローや優しい言葉は私が私にかける必要はない。

 

慰めなんてあの当時の私には毒にも薬にもならない。

それよりもお前はお前をいい加減信じろ!ばかになれ!

ださくてもしょぼくてもゼロからでもいいじゃねえか!

自分のできることをやるしかないんだから精一杯やれ!

正面から見つめて生きろ!それは思ってるより地味だがな!

でもそれがなりたかったお前の生き方だろ!!!

だったら言い訳しないでそれをやれよ!楽しいぞ!と言いたい。

 

もしかしたら五年後の私は今の私にもっときつい事を言ってくるかも。

「五年前の君へ。あの頃はわかったつもりになってましたね」

今の私「ひええ」

でも、こうやって他人が見て厳しく感じられることって

私にはそのほうが楽しいからやってるっていうだけの話。

ある種のプレイみたいな。

自分に辛口の方が楽しいからやっているという話。

 

はたからみたらしんどそうに見えることも

本人からしたらしんどく生きない方が自分の力を持て余しててしんどい

というパターンもある。私はそっちの人間。

なので上記の私の厳しい愛のムチっていうのはムチに見せかけて

「お前他人でごまかすより自分を生きたほうがよっぽど

楽しいから早くこっちこい!」って言っているのだ。

 

でもあの頃はそんな事できなかったけど。

変に真面目に生きようとするっていうのが一番つまらないしきつい。

だってそこに自分がいないから。

自分不在で自分を生きる人生ってきつい。

他人や顔色でごまかすってそういうこと。

変に真面目に生きるくらいなら本当に真面目に生きたほうがいい。

本当に真面目になれないんだったら

今の自分のまんまで毎日勝負したほうがよっぽど楽しい。

それが一番自分が自分にしてやれること。

 

でも昔は変な真面目さばっか背負っててできなかったけど、

その数年後の私はやれてるから昔の私よ安心せい、とも言いたい。

自信っていうのは、人からの評価なんかじゃつかない。

自分が信じたことをやったうえでの評価ならつくかもしれない。

でもそうじゃないなら、自分が自分で考えた経験を重ねていくことと

その決断をした自分を信じてあげるということが自信になると今は思っている。

自信てのは自分を信じることだから。

自分を信じるに値できる行為を自分が自分に見せていくしかない。

自分の生き方を見ているのは、他人なようでいて実は自分だ。

自分を信じられなくなるような生き方を自分が選択してはいけない。

 

でもそれは「自分は間違えなんておかさない!」って事を信じるんじゃなくて

「やべ!めちゃくちゃ壮大に間違った!」っていう事も

認められる自分の方が信じられる。

俺はこんなもんだ。でもこんなもんの俺でも悪くない。

それなりにやれてる。そう自分で自分に言える生き方をしていきたい。

 

もはや間違いかどうかなんて本当にどっちでもいい。

そんなことは本当にたいした事じゃない。

自分で考えて決めたことをやったかやってないか、それだけ。