少し前に「美術館女子」だったか
そんな内容の言葉が物議を醸したのを思い出した。
あの時、誰だったかがツイッターで
「近年のわかりやすさ、キャッチーならなんでもいい
みたいな風潮には危機感を覚える」と言っていた。
「美術は難しい、よくわからないものだから
パッと見で感じるだけでいいのだ。
みたいな言い方が増えている。
そんなに易しいものではない。
その作品が生まれるには理由と歴史が存在しているのだから
それを理解するのが面倒だという理由で
感じるだけでいいというのは乱暴なのではないか」
というような内容だった。
この話を思い出したきっかけは
マルジェラについての映画を見た時に
「評論する側の理解が欠けている」という言葉が心に残ったからだ。
最近ではレビューを見てから買い物をする事はごく自然なものになった。
「買った側が判断するもの」「それを見て買うかどうかを決める」流れ。
宣伝文句よりも購入者のリアルな声を聞ける利点がある。
ひとりの声だけで良し悪しを左右されてしまうという危うさもある。
「お客様は神様です」なんて時代が古いのはいうまでもないけれど
それでも未だに買った側が判断する、ジャッジするという流れはある。
しかしどうだろう。
その買った側のレベルというものも存在するのではないか。
買った側は自分が見当違いだったり自分のレベルが浅いなんてことは
恐らく考えもしないだろう。
「金を出したのだから評価して当然だ」
しかし買う側も買う側のレベルというものは存在する。
マルジェラの映画での言葉を見たあとのことだ。
私はしょへいに勧められて一本の映画を見た。
その映画は、前にも一回見たことがあるものだった。
二回見るほどのものでもなかったんだけどな、と思いつつも
「今のシギが見たら多分見えかたが変わってると思うよ」
と言われ見てみた。
すると本当に同じ映画とは思えないほど感動した。
ストーリーに感動したのではない。
その作品の深度に感動したのだ。
ただぼーっと見ているだけではわからなかった部分が
ありありとわかった。
作者が言葉にせずして伝えたかったこと
ひとつの描写から異なる二つの意味合いを重ねていること、など
その作品が何重にも意味が重ねられて出来上がっているということに
感動したのだ。
そしてそれと同時に、一回目に見た時の私は
いかに着眼点が甘かったか、浅かったかを思い知らされた。
「二回見るほどのものでもなかった」なんていう言葉
なんて傲慢で恥知らずなのだろうと反省した。
私のレベルが足りていないだけの話だった。
私は「自分は素直だから目の前に起こったことを感じることしかできない!
奥深くなんてわからない!」とどこかで頑なにおもっていたのだけれど
そうではなかった。
ただ単純に「見方を知らなかった」のである。
そしてそれは学ばない限りは身につかないものだ。
見ようと思わなければ、見ることはできない。
二回目を見終わった後にその映画のレビューを見ていると
昔の私のように上っ面だけで評価している人が沢山存在していた。
マルジェラの映画のように
ここでは評論家ではなく、「見る側の理解(知識レベル)が足りていない」
という事は往々にしてある。
それに、この先もっと「ただ感じるだけでいいんです」
「そんなに難しいことじゃないんです」なんていう言葉が大手を振って広がり
何も思考を働かせることなくぼーっとただそれを鑑賞して終わりなだけでは
きっと人間の思考能力はこの先下がっていく一方なのでは、と危惧した。
「難しい話を簡単に説明できるのが頭の良い人」という言葉も
昔は確かにと思っていたが、最近ではそうは思わない。
難しい話は難しくなるだけの理由がある。
それを簡略化して簡単にすることは可能かもしれないけれど
それで理解した気になるのは危ないことだと思う。
それは作り手側にも言えることだ。
「聴く側が理解できる範疇で」というのはそもそも聴く側を見下しているので
それは論外ではあるが
資本主義という土台の上に生活しているからといって
そこに身も心も売り渡してしまっていいのだろうか
と近頃の私は疑問を抱き始めている。
「これは感動する映画ですよ」と書かなければいけない。
「これは泣ける漫画ですよ」と宣伝しなければいけない。
全てが簡易化され、飲み込みやすく作られているもの。
そればかりが市場に流れていく。
先ほどのブログに書いたのだけれど
おいしくて癖になる食べ物というのは加工食品が多い。
驚くほど砂糖が入っていたりする。
中毒性があるので何度も食べたくなるし
食べるほどに体が重たくなる。
それはもはや毒といってもいいのではないか。
そして中毒にさせてしまえば売れるのだ。
それで成り立ってきたのが今までの資本主義だ。
宣伝文句は会社側がいくらでもいいように言える。
隠したい部分はわざわざ言わなければいいだけだ。
言っていないだけだから、嘘をついていることにはならない。
それで本当に良いのだろうか。
私はそれが多くの人が幸せにつながる社会とは思えない。
いいように騙し騙され、いいように上っ面だけを見て解釈し
手っ取り早いものだけが消費されていく。
「本質とは」なんて言葉を出した時点で煙たがられそうだ。
どんなに面倒でも、そこまで味気がなかったとしても、
面倒臭さを超えて知っていった先に
めんどくさがってやらなかった時よりも
面白いものを見つけられたりする。
作られた味を控えたあとで、素材本来の味わいを
感じられるようになったりする。
この事は私がここ最近で経験して感じたことだ。
易しきに流れ、思考を手渡してしまうのは危険だ。
それは楽なことだが、楽なことが幸せとは限らない。
それが少しずつ人生を回復不能にさせていく罠になる場合もある。
考えることは人間の能力のひとつだ。
それを簡単に放棄して手渡してしまうことには危機感を抱く。
大前提として資本主義の上に生きている以上は
そのルールを無視した仕事はできない。
けれども心を売り渡すというのとは訳が違う。
冷静に見つめる必要はある。
ものを作るうえでの作品との向き合いかた
社会との向き合いかた 自分との向かいかた
自分の甘さを痛感している。
だからこそ、それは伸び代とも言い換えられる。