心が見る

心が見るの楽曲説明をしたくブログを書きます。

今回の物語の内容は

閉塞感のある町から

それぞれの人達がそれぞれの意見をもち

それが故に喧嘩や葛藤も生まれ

それをニーナは新鮮な目で見つめながら

少しずつ受け入れようとしているシーンです。

そのため今回の楽曲は

町にある小さな酒場で繰り広げる人間模様

喧嘩が起きたり

この町なんか出てってやる!と涙する人を

なだめる人など

色んな人間の心が交錯する場所をイメージして作りました。

その交錯する場所にいる人達は

決して裕福で贅沢な暮らしをしてるわけではなく

どちらかというと貧しいながら毎日を暮らしている人達です。

皆が皆決して楽に暮らせてはいないながら

互いを(特に子供を)見守りあい

悩みを抱えひとり眠れない子も

夜の間にその子だけしか見えない虹がある

悩んでるものだけが手にできるものがある

そういう願いを私自身込めて作りました。

また、曲の始まりと終わりに流れる音声は

コジョという売れないお笑い芸人が

夢を諦めず家族に見守られながら

大舞台に立ち

貧しくて辛かったことを笑い話に変え

観衆を笑いの渦に誘うというシーンの音声です。

彼の夢を諦めない姿

貧しい中でパートナーと支え合う姿が

今回の物語と、詞の世界観にぴったりだと思い

楽曲の中におさめました。

決して楽なことばかりではない人生ですが

その中のひとつひとつの楽ではなかった出来事を

笑いにいつか変えられたらという願いを込めました。

「心が見る」

路地裏にひとつだけ
赤いレンガの壁が落ち着くBARがあつて
賑やかな声がする 
笑い声がしたあと喧嘩が始まつたり

悲しみの数だけ喜びが待つという
あいつはいつかこの街を出ていくと叫び泣いた

夜に虹が咲く 
眠れない子供だけが見つけるだろう
やがて時が過ぎ
今日のことも流されるように忘れるだろう

干しぶどうひとつだけ盗み食いした子らを
横目で見て見ぬ振り
誰が責められるだろう貧しさに浸かる子を 
溺れてしまわぬように

沈黙の優しさがこの街にはあった
心は目に見えないから気付きにくいが
太陽だけが全ての人を照らしているのだ
支配者も被支配者も同じ人であると

夜に虹が咲く
眠れない子供だけが見つけるだろう

やがて時が過ぎ
今日のことも流されるように忘れるだろう

駆けろ、坂道を
心はいつも自由だと思い出した
涙、流ればいい
完璧じゃないまま生き続けてゆく

保護中: 第十話「虹」

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

過去の自分を越えていけ

自由になるためには強くならなければならない。

尊敬する人の言葉が今の自分の心に響く。

 

誤魔化すこともできる

今まで通りにいることもできる

けれど本当にそれでいいのだろうかと自分が言う。

背後に恐れがある時にいつも

自分を引き止めるものがある。

時には他者の存在、時には体調を使って。

無意識化に自分を進ませることを止めようとする。

そういうもののせいにしている限り進むことはできない。

 

もう一回り自分が成長するためには

恐れや今までしてきた自分を引き戻す行動や考え方を

超えていかなければいけない。

それは誰かがやってくれることじゃない。

目に見えてわかる成果でもない。

非常に地味で、非常に孤独な時間。

 

だけど自分が尊敬している人の存在や言葉が響く。

今自由に自分を生きているように見える人だって

最初から強く自由であったわけじゃない。

みんな孤独と戦って恐れを乗り越えてきた

そういう人だけが手に入れられる自由がある。

責任ある大人とは孤独を人に依存して散らせずに自分の中で覚悟して持つことだ。

 

責任と自由はセット。

自分の人生に責任をもって楽しんでいけるために

自分を縛り付けていた生き辛くさせていたものとしっかり向き合って

恐れを超えていきたい。

もっと自由に、もっと楽しく、人生を面白がれるものにするために。

どんな変化も良いものだと

自分自身の中にある見たくないものに

向き合わなきゃいけない時ってのはあるよね。

自分自身を縛ってる思い癖とかは

大体過去にあった出来事から学習したことだから

何回も過去を見返してるけど

まだ解決できてない問題もあったりして

人間である以上誰しもが持ってることだと思う。

見返すたびに、自分に触れて

その度に自分を理解していってる。

だから後退じゃないし

進んでないわけでもない。

葛藤したぶんだけ自分の中で確実に変化している。

今起きてる変化がどんなものでも

変化は総じて良いものだって言葉を見た。

もうそろそろ変えたい自分の部分

もうそろそろ受け入れたい自分の部分

そこと向き合って逃げずに紐解くことは

自分を生きていくことと密接に繋がってる気がする。

日本人と甘えの感情

心理学の勉強で日本人の性格的傾向について

「甘え・義理人情の重視・協調性・集団主義」と書かれていた。

 

甘えが想像してなかったので驚きだった。

甘えとは、他者に好かれたいとか

守られながら自由に生活したいという心なのだそう。

終身雇用とかもそれだよな

会社に守られて安心して生きていたいみたいな。サバイブ思考ではない。

保険が売れるのも日本人の心配性の特徴からってのもあるし

守られたいとか安心したいっていう気持ちが強いのだろう。

最近は結構変わってきたというかそれも出来なくなってきたというか。

 

電車のホームにこんなポスターが貼られていた。

 

あなたはどれが嫌だろうか。

私はこの中でいうと、

4位の「くしゃみや咳を周囲に配慮せずに行う」

だけ超嫌じゃない!?って思った。

遠くにいるならいいけど、

目の前の人が手をおさえないでくしゃみとか咳してたらいやじゃない?

 

それだけ超絶いやだったけど

でもそれ以外についてはあまり思わない。

座席の座り方が2位で大股びらきの人が書いてあるけど

確かにこの類の人は結構見たことがあるけど

私はその類の人に出会う度に

私が女だからわからないだけで

おそらく金玉が30平方メートルくらいある人なんだろうなと想像するので

不快にはならない。

見えてないだけで人にはそれぞれ事情があるのだと思うと

自分の本位だけで人を批判しようなどとは思わず

そして私は何かを悟ったように

静かにまぶたをとじ30平方メートルの金玉をそうぞ…

 

会話、化粧、荷物、スマホとかも

たった数駅の付き合いだしなと思うとそんな気にならない。

 

 

マナーに厳しい部分も甘えと協調性に繋がってるのかもと思った。

みんなが気持ち良いことを、快適を維持してくれるはずだという期待。

そして自分も守ってるんだから、相手が守らないのはずるいという気持ち。

それが裏切られたから不快に感じるというのは、一種の期待という甘えでもある。

そこに協調性や秩序を重んじる気持ちがくっついてくる。

 

日本人が秩序が整っているのは

ひとりひとりの品位が高いわけではなくて

みんなが縛りあって監視しあってるからで

そこから外れるのが怖いからと見たことがあるが

これも集団主義・協調性と甘えが関わってる。

自主的に自己決定的にやってるのではなく

やらないと恥ずかしい目にあう(周りの目がある、守ってもらえない、優しくしてもらえない)

からなんとなく周りと同じことをしている、みたいな。

大人がそれだとどうなのかなという危うさを感じる。

 

 

これはただの特徴であり良し悪しどっちの面もあるんだけど

私的にはもっと余白とか自由さを選択できる

許容できる空間になってほしい。

そうじゃないと、突発的に何か予期しないことが起きたときに

パニックになって思考停止しがちになるのではないかと思うから。

言われたことだけをやっている怖さはここにある。

他人や世間は自分の予想通りに動かないことが普通である方が

予想外に強くなるような気もするので

なので私は金玉30平方メートルで不快に思わない自分でいようと思う。

 

ちなみにこの画像撮った後に電車に乗り間違えて

めちゃくちゃ遠くに飛ばされて電車に三時間いるはめになった。

歌詞が捗ったので結果オーライだが。。

悪いのは自分なのに、

なんで同じ線で違う方にいくの!おかしいでしょ!

と思う自分は甘えなのかもしれない。

いや、てかわし基本人のせいにする思考だとつい最近発見したので

甘えは強い気がする。

甘え方よなー。

期待して裏切られて不快になる系の甘えにはいかないようにしたい。

甘えよくないもいきすぎると辛いから

察して系ではなくちゃんとしっかり甘える系を実践しようかな。

 

日本人よ!

自分はマナーを守れるまともな人で

他人に甘えない大人だと思いつつ

実はこっそり心の中にある甘えを人に強要しようとして

裏切られていじけたり怒るのはやめにして

確実にしっかり漏れなくちゃんと明確に如実に正確に甘えよう!

 

完璧じゃないのが君の良さ

本日は歯医者さん後に今月の手紙の制作。

もう残すところ今回の物語は3回。

制作風景はちょっとだけインスタのストーリーズに載せたので

あと20時間くらい見れます。

https://www.instagram.com/shigi_official

 

今回の曲の最後の一節が

「完璧じゃないまま生き続けてゆく」という歌詞で

結構声を張るのだけど

その歌詞の部分が録音しててちょっと甘い部分があって

綺麗にとれたのもあったんだけど

甘い方を採用することにした。

この歌詞のメッセージに添いたかった。

前々から何度か書いているけれど

私の惹かれるものに

揺れているやオーバーや完璧でない

綺麗に整ってない部分にその人の人としての匂いがする

と考えていて、そこに惹かれる。

 

皿でも綺麗すぎるものより

少し尖ってたり主張してる部分がちょっとだけある方が好きで

愛車のコペンも2人乗りで狭いし不便だけど

それがまたコペンの良さでもあったりと

綺麗すぎたり完璧すぎじゃないものに惹かれる。

それが私にとっての人間という存在。

 

ライブでの演奏がいいのにCDだと良さが半減するのは

(私も何度かライブの方が良いと言われたことがある)

その生々しさにあるのではないかと思う。

技術が発達したことで録音ものは音程もガッチガチに修正できる。

もしくは歌わなくたって機械に歌わせられる。

それもその面白さがあるけれど

人としての面白さはその人のもつ生々しさではないかと

思うようになってからは

自分の音楽のあり方も

今までのあり方に縛られず

より生々しさを伝えた方が良い所は伝えたいと思うようになった。

 

例えば中川家の漫才を見ていると

枠からはみ出た生の良さを如実に感じる。

あれはどこまでが台本なのだろうか、と感じるほど

どこから枠で、どこからはみ出たのか

はみ出たものも枠内なのか、見ている方がわからなくなる。

 

守破離のように、守れて初めて破れるところが

この生々しさの部分なんだろう。

 

一方で、日常でも「守」の部分がとても大事だと感じるこの頃で。

食事、睡眠、運動、インプットとアウトプット、

そういうもののバランスがとれた状態を保つことが

表現での破や離に繋がるための大事な部分なのだろうなと思う。

この日常の守ができていないと

些細な事に振り回されたり集中力が弱かったりして

何かと生きづらさを感じてくる。

 

日常のあり方も音楽のあり方も

土台の枠がきちんとされて始めて遊べるのだろうから

土台のチェックは定期的に自分会議を開催している。

今のわしに必要なのは定期的な運動と(最近歯の治療が痛くて出来なかった)

食事を決まった時間にすることである!(これがまじむず)

世に生きるだけでなく

初めてのコワーキングスペースを利用した。

しかも海が見れてなおかつ露天風呂があるのです。

こんなのを眺めながら行った。

 

 

色んなお風呂場には泥パックなどもあったりして

泥パックしながら入浴してた方がいらっしゃったんですが

パックしながら入浴するのは駄目らしくて

途中でスタッフの人が来てパックして入浴してる人に注意してたんだけど

大人が全裸で大人に注意されるってなかなか面白い光景だなと思って

平和な気持ちになった。

 

こりゃいいわと思い他にも探してみると

ワイン飲みながらやれる場所もあるみたいで

色んなワーキングスペース探検も良いなと思いましたわい。

いつもと違う場所で、いつもと違う人たちに囲まれながらやると

すごく捗るし脳みその色んな場所が刺激されました。

 

お風呂に浸かりながら

これからは仕事スイッチと

脳みそを休ませたり遊ばせるスイッチのオンオフを

もっと意識して自分で操作したいなどと思った。

 

先日、若松英輔さんのツイートで

「若いときでも、世に生きていくのに必要なものは分かっていた。

だから、それを求めてさまざまなことを試みた。

しかし、年齢を重ねていくと、世に生きるだけでなく

人は誰も、自分の人生を生きなくてはならないという厳粛な事実を知った。

そこでは世の常識とはまったく別種の叡智が必要なことも。」

という言葉が心に染み入った。

 

自分の人生を確かな気持ちで生きていくということ。

自分がデザインし、設計していくこと。

ひとりにつきひとつを与えられていると思うと、

さあこの人生をどう創ってやろうか、という面白さがわいてくる。

面白さでもあるし、それが自分の人生に対する責任ともいえる。

時に苦しみ、時に楽しみ、時に孤独に、時に分かち。

 

温泉に浸かって空を眺めながら

楽しく会話する人たちの声が時おり耳に入りながら

何をどう生きてくにしても

面白いこと、楽しいこと、

つまり遊び心を忘れずに創っていきたいものだと感じた。

 

ついつい真面目に体に力が入りがちになってしまうもので

だから意識して抜きの、遊びのスイッチを自分にいれてあげたい。

死刑囚表現展

死刑囚表現展に初めて行った。

日を浴びるわたくし。電車に乗り八丁堀へ。

都会の川を眺めつつ。

八丁堀は伊能忠敬とゆかりのある土地らしい。

彼は55歳から地図作りを始めたようで

あの頃の55歳だと結構な年だったんじゃないかな。

人生いつからでも何が新しく始まるかわからないものだ。

日も暮れて到着。

思ったより人が多くてびっくり。

植松死刑囚や、加藤死刑囚などの作品も展示されていた。

植松さんの表現の

エネルギーのなんとも言えないうねりのようなものに魅入られた。

風間博子さんの作品にも惹かれた。

詩に涙が出そうになった。

なぜだろう、描写と気持ちの混ざり方にグッとくるものがあった。

 

奈良少年刑務所で詩のワークショップをしていた

寮美千子さんの著書

「あふれでたのはやさしさだった」にある

罪を犯した少年の詩の研ぎ澄まされ方にも驚くものがあった。

 

その質の高い表現を表す機会に恵まれず

(むしろ葛藤や苦悩の存在が表現を研ぎ澄ませていったのだろうか)

普通という社会に押し込まれ

そこで普通に生きることもできずに

思考の癖が大きな歪みとなり

結果自分と他者を傷つけるに至ったのか。

 

刑務所や死刑に至るほどの行為をほとんどの人は犯さない。

それは自分が正常な証というより恵まれただけのことにも思える。

その罪深い行為を犯した人間の背景が通常と異なるからこそ

(そしてそれは当人の苦しみや生きづらさでもあっただろう)

ほとんどの人では書けないものが書け、見ることができるのだろうか。

 

爪弾きにされ狂った人が悪か

人殺しを産んだこの世界が悪か

どちらにせよ誰かひとりだけが完全に悪いことなんて

人間の世界にはないのだろう。

人と人とで社会を作っているかぎり

他者の影響から逃れることはできない。

 

どこで誰と出会わなければ

もしくは出会っていたら

彼女ら彼らは罪を犯さずにすんだのだろうか。

どこまで時計の針を戻せば良いのだろうか。

 

それとも映画ヘレディタリー継承のセリフのように

悲惨な結末を迎えると決められたものは

どんな選択をしても悲惨さから回避することはできない定めなのだろうか。

 

自分が悲惨な結末という定めに向かっているレールに乗ってるとするなら?

それを否定することは誰にもできない。

未来は見えないから。

多くの人は何か事件が起きた時に、自分を被害者の視点から話すけれど

自分が加害者になる可能性だってゼロではない。

 

人間の世と人間のどうしようもなさを儚むように

悲惨さとロマンスさを掛け合わせて

遠くを見る目でいることも可能だけれど

現実的には犯罪に至った人間の環境、対人関係や

心の経緯をもっと明らかにさせて

そこからどう次の被害を減らすか

社会全体で考えて修正していくことが

ただ罪を罪だと叩いてせいせいするよりも

事件を増やさないためには必要なことだと思う。

憎しみや怒りは被害者の方がもつのは当然のことだけど

第三者の人間は無念さ悲しみ怒りを抱きつつも

どうしたら事件を減らせるのかに思考を働かせた方が良い。

感情的になっても、冷静に戻していくことが必要だ。

 

死刑囚の声なんか聞くか!という声もきっと少なくないだろう中

貴重な表現を見せてくれる場所があることに感謝。

そして死刑囚の表現と共に

遺族の方の言葉も併せて知りたくなった。

加藤死刑囚の裁判で殺された19歳の少年の父親の言葉

「俺はお前を絶対に許すことはできない」

も、失われた人の心にある言葉もしっかり見つめたい。

 

加害者、被害者、死刑囚、遺族。

こういう枠組みに当て嵌まった人でも

その枠組みの仮面を外すと

誰1人同じ人間はいない。

そのひとりひとりの声をもっと聞きたくなった。

 

死刑に賛成か反対か。

それを意見するのにまだ私は情報と思考が足りていない。

この間テレビで飯塚事件を見た時に

真相は定かではないが

冤罪で死刑が行われることの可能性について考えるとゾッとした。

 

この死刑囚表現展を知ったきっかけは

加藤死刑囚のネット記事を見たから。

「表現展への応募が唯一といっていい生きがいであり

自由に表現できる場を確保してくださることに感謝しています」

と書いてあって

言葉や思うことを表現する場があるということは

私が思う以上に大切なことなのかもしれないと思って

死刑に至るほどの罪を犯した人の表現とは

どんなのだろうという気持ちで足を運んだ。

加藤さんの書いた絵や言葉を見ながら

彼はもうこの世にいないという事実がなんとも不思議に感じた。

 

寮美千子さんの本からご縁みたいなものがあるのかもしれない。

自分が嘘のないあまりにも人間的である歌をうたいたいと思っているから

導かれているのか、出会うのか。

 

あまりにも人間的故にうまく生きられなかった人や

いきなり大切な人を奪われた人の慟哭も含め

人間というものについてもっと見つめたいと感じてるこの頃。

 

時の流れに身をまかせ

 

8月下旬から怒涛の日々を過ごしていたけれど

最近その疲れがでてきていたのか生活が乱れがちになっていた。

その間に直射日光に当たってたカタツムリを保護して

次の雨の日まで宿泊してもらうつもりが情が移り一緒に住んでいる。

同じ大きさの子を見つけたので二匹になった。

カタツムリを飼ってる人のブログを見ていると

人参が好きとか段ボールが好きとか色々書かれてたけど

うちの子は小松菜と水菜が好きみたい。

カタツムリは偏食でそれぞれ好きなものが違うというのを最近になって知った。

 

子供の頃にカタツムリの大群を飼っていて繁殖もさせていたので

すごく懐かしい気分に浸っており

夜などは餌をあげて霧吹きをあげて

食べてる時間をのんびり眺める時間が癒しとなっている。

 

めるは最近また強制給餌をしており

自分で食べるよりも食べやすそうなので継続している。

調べるともう94歳らへんだったので

介護生活もうなずける年齢である。

しかし相変わらず食欲もすごく元気である。

若い頃から年寄りになるまでずっと一緒に生活していたので

ゆっくり老いるということを近くで見ている。

 

先日ちきりんさんと東京プリンの伊藤さんの配信を聞いていて

伊藤さんが老いて歩けなくなることとか怖いと仰ってて

ちきりんさんが「それは親の介護とかを間近で見て体験してないからよ。

近くで人が老いて死ぬさまを見届けると自分もこんな感じに追いかけるんだなと

思えるからそこまでの怖さはない」と仰ってて

私はその配信を聞きながら

みうらじゅんさんが言ってた老いるショックという言葉が

頭に浮かんでしょうがなかったけど

めるを眺めてて同じような感覚がある。

 

心理学の勉強でも30代からは成人期という期間に突入し

成人期は成長する部分もあるけれど

停滞について向き合うことが増えていくと書かれていた。

先の見えない事に挑戦するというよりも

今まで自分がやってきたことや強みを元に

どう生きていくかを現実的に選択し、修正していく時期。

 

確かに私も最近作曲をしていて

昔のように「とりあえず作るだー」みたいな感覚ではなく

今までを踏まえてどういう作品を作ろうか

という考えで作っているのだけど

一歩新しい姿勢で挑戦してることへの面白さと

過去の自分が踏まえられているということを含めても

成人期みを感じる。

停滞はあんまり感じていない。

成人期といっても30代から60代半ばまでの話なので

私はまだその中ではヤングみなのだろう。

30代はとにかく面白いことをやっていきたいし

40代はとにかく面白いことをやっていきたいし

50代はとにかく面白…

という人生を送っていきたい。

自分が面白いと思える人生を送れることを大切にしたい。

 

しかし多忙さとイベントが多いと感受性が疲れることと

気圧などもあり生きてるだけで負荷がかかっているので

無理にハイにはせずにな。

 

過去のわたし

暑くなったり急激に寒くなったりだけど

もう10月も半ば近い事実のため

衣替えをしまひょか!と思いクローゼットの奥に

しまってあった服を取り出してみると。。。

一個も気に入ったものがなーい!!!!!!

という事実。。。

こんまりさん的にいうとときめきがない!

確かになんか惰性みは感じていたのは事実だぜや。。

 

最近、街中でスカジャン着てる人を見かけて

あスカジャンかわいい欲しい買いたい!と思って

探しまくってお気に入りの子に出会い手に入れたのだけど

髪も青くしたり新しいスカジャンとの出会いがあったりで

わしの見た目もアップデートの時期なのだろうか。。

髪色だいぶ落ちてきましたがこれはこれでかわいい色味。