一月三十一日。曇り。
覚悟を決めたものが
別の角度から崩される。
不思議と静かで冷静だった夜。
少しの胸の痛みと残念さに
向き合っていたら眠るのが遅くなった。
仕方がない事は手放して
また新しい道を生きようか。
丁寧に優しく、冒険していこう。
何度でも。
一月三十一日。曇り。
覚悟を決めたものが
別の角度から崩される。
不思議と静かで冷静だった夜。
少しの胸の痛みと残念さに
向き合っていたら眠るのが遅くなった。
仕方がない事は手放して
また新しい道を生きようか。
丁寧に優しく、冒険していこう。
何度でも。
一月三十日。晴れ。
君の目にこの世界はどう映っているのだろう。
君の目から覗いてみたい。
今君の周りにいる誰よりも
僕は君が本質的に求めている音楽を
差し出す事ができると思っているよ。
それで君を喜ばせる事もできるし
それで君を苦しめる事もできると思っているよ。
僕が自分の性分について観念したこのタイミングで
君に会えた事に必然を感じているよ。
義務感じゃ僕は動けないからね。
これを動かすのは僕であって君でもあるんだけど。
馬鹿だと思わないか。
駄目になる事がわかっていながら踏み出すなんて。
本当人間はどうしようもなくて
そういうどうしようもないのが好きな僕は
本当にどうしようもない人間だね。
けれど僕らはきっとお似合いだと思うんだけどな。
普通の生活じゃ言えないことが多すぎるんだよな。
だから音楽なんてやっているんだろう。
苦しみたくてやっているんじゃないし
苦しみから逃れたくてやっているんじゃない
苦しみさえ甘美にさせるものだからだろうね。
君はこういう退廃的な類の話がきっと好きなはずだと
僕は睨んでいるんだけどね。
わからない方に賭けてみてよ。
これらの全てが君を口説くための文章だと
君は気がつくだろうか。
僕はとりたてて根っからの善人ではないから
君を幸せにしたいわけじゃない。
君が眠らせている細胞のひとつひとつを揺り動かしたいんだ。
目を覚ましてよ。
君の音を聴かせてよ。
きっと今より苦しくなるし
きっと今よりも嬉しくなるはずだよ。
一月二十九日。晴れ。
怒りを忘れたくないな。
安寧に身を寄せたくなったり
幸せに浸かっている時もあるけれど
怒りという純粋なエネルギーは
間違いなく自分にとって必要な存在だな。
自分の中に海のように
静けさや包容力と荒々しい無惨な場所がある。
思考と肉体を切り離しても
大局観を経てもなお
自分を苦しみから解き放ちたくない時がある。
それが沸き起こる根源のエネルギーが
感動のすぐそばに存在することを知っているから。
まだ楽にならなくてもいいよなと思う自分がいる。
終了時間は私めがけて追いかけてくるのではない。
むしろこちらから突っ込んでいっているようなものだ。
五十年後に捨て去ることになるかもしれないこの肉体。
明日の車の中かもしれない。
愛する人は生きている間しか愛せない。
銀行振込でのシ組入会をご希望されているY様
こちらからいくつかのメールアドレスを使って
送信できているのですが、Y様の元に受信されていないようです。
これを見ていらっしゃいましたら
受信設定を見てもらうか、別のメールアドレスからご連絡ください!
お待ちしてます!(駅の掲示板みたいな使い方。)
一月二十六日。晴れ。
音楽は本当に危ないのだ。
毒にも薬にもなるのだ。
そういうものが好きなのだから仕方がない。
これは性だから仕方がないのか抗えない。
毒でも薬でも飲み込ませたい。
僕が口に含んだそれを。
突然やってきたものに対して。
僕の心疼いて仕方がない。
なんの因果か。
一月二十五日。晴れ。
にゅすけと厄払いへ行ってきた。
緊張感と新鮮さが面白かったなぁ。
詳しくは朝ラジオとかで話そう。
その後川口で飲み。
にゅすけが行ってみたいという飲み屋さんへ。
おでんとカニ味噌と日本酒、最高の組み合わせ。
日本酒おかわりしてしまった。楽しいとすすむんだなぁ。
にゅすけはいつも行きたい飲み屋さんを見つけてくれて
そしていつも私より多く払ってくれて
家の前までタクシーで送ってくれたりもして
なんか彼氏だったら最高の彼氏だよなとか思ったりする。
19年の付き合いだもんな〜。
今年の私の目標が人の前で泣くことだったんだけど
今日にゅすけに貫いてほしい物語の話みたいな話をしてるときに
お互い少し涙腺が緩んで
年とったな…とお互い言い合って面白かった。
わりと早く泣けそうな気がしてきた。だいぶウルウルしてたし。
おばさんになってもおばあちゃんになっても
仲良しでいたいなって思った!
一月二十四日。晴れ。
Netflixでアメリカの社会現象にもなっている
近藤麻理恵さんのお掃除番組を見た。
夫を亡くしたことにより
時間が止まってしまった女性の部屋を
片付けるというものだった。
40年経っても変わらない夫への愛に
見ていて胸が苦しくなった。
福厳寺のお坊さんが言っていた。
「愛するということは
そのことから生じる憂い、苦しみ、不安に対して
覚悟をもつということである」と。
愛する人がいるということは
どんなに幸せなことだろう。
愛してくれる人がいるということは
どんなに幸せなことだろう。
けれど愛は幸せなだけではいられない。
もれなく不安も嫉妬も孤独もついてくる。
ひとりでいる時には襲われることのない気持ちに
襲われる。
殺人事件を起こした人が言っていた。
「俺は誰からも愛されなかった」と。
誰かを愛することで生じる苦しみ
又は愛する人を失う苦しみと
誰からも愛されない人の苦しみ。
どちらが苦しいかなんて愚問だ。
どちらも苦しい。
仏教の教えは苦しみからの解放にある。
それほど遥か昔から人は苦しみに苦しめられてきた。
孤独でも苦しみ、人を愛しても苦しみ。
安定を求めては苦しみ、自由の中にも苦しみ。
現実にいえば苦しみは幻。手で触れられるものでもない。
それは喜びも同じ。
その手で触れられない、
脳味噌の中のことに人は翻弄される。
全ての事象が表裏一体だとするのなら
光と闇が背中あわせだとするのなら
苦しみの横にあるのは温かい何かだろう。
夜明け前が一番暗いように。暗闇のすぐそばに優しい光。
だからどちらも抱きしめる。
光と闇のどちらをもそばにいていい。存在していい。
邪魔者扱いしないよ。
いたい時にいていい。必要があって現れたのだろう。
愛する人との思い出の品に別れを告げ
新しい人生をはじめた番組の女性。
けれど愛する人との思い出とは別れない
これは誰にも渡さないといっていた。
一月二十三日。晴れ。
たまにニュース番組を見ていると
コメンテーターの人が
「我々国民は…」という言い方をする。
毎度その言い方に疑問を感じる。
コメンテーターは国民代表ではない。
国民から選ばれた人ではない。
大体コメンテーターの人の言う
「我々国民は…」の後の意見に
賛同しない事の多い私はそう思う。
「俺はこう思ってんだよおお!!」と
ひとりよがりに言ってくれた方が私は好きだな。
一月二十二日。晴れ。
ちょっとかしこまったお食事会をした。
あっという間だったけど楽しかったな。
短っ!