売れてるものが良いものなのかどうなのか
資本主義においては売れてるものが勝利者ではある。
勝利ではあるけれどそれが良いのかどうか
それは個人の好みかどうかではなくて
質としてどうなのかというところで。
妬みではなく「人としてああなるくらいなら金持ちにはならなくてよい」と
思うようなこともあったりする。
成果や結果や勲章よりも大切な部分というのだろうか。
これはおざなりにしてはいけない、という部分が何かしら誰にでもあったりする。
大量の資本が投資されていたとしても
作り手がお役所仕事で今までされてきたことをし続けているのでは
クオリティは現状維持ではなく徐々に劣化していくと思っている。
それが大量に広告されているから手にとる人々。
そこに疑いはあるか、自分なりの美学はあるのか。
そこが麻痺していないか、思考停止していないか。
消費者としても、作り手としても。
自分の意思のようでいて、選ばされているのではないか。
私自身によくよく問いかける。
シンガーソングライターあるあるとして
一筆書きのように一度書いたものを修正したがらない傾向にある。
それはこだわりというより怠慢だろうなと私は思っている。
鮮度の高いものの方が良い場合もある いじる必要がない場合もある
けれどこの作品は本当にそうだろうか。
自分の怠慢ではないだろうか。耐えうるクオリティだろうか。
引き返したり修正することは気持ち良いものではない。
けれどそこで楽をしてしまっていいのか。いいわけがない。
そういう心持ちはわかる人にはわかってしまうものだ。
しょへすんと話し合っている姿を見た人は
「しょへすんはよく考えるよね」と少し皮肉っぽくいう人もいた。
私も考えすぎるばかりで早く行動にでたい!と思うこともあった。
でも今となってみればわかる。
それをいう人の方が考えなさすぎだということを。
シギが進まないのはしょへすんが邪魔をしているのではない。
私が甘いままで進めようとしていたからだ。
進めることも形にすることもやろうとすればできるにはできる。
考えるよりやれ!という思考も飲み込みやすいので人々にはうける。
けれどそれで本当に良いのだろうか。
「〜っぽい」というような表面を撫でたものしか作れないと思う。
物事が人々に受け入れられるのにはそれ相応の理由がある。
それがまぐれで当たる人もいるけれど
ほとんどの人はそんなまぐれにはならないし長続きしない。
本当に良い作品というのは試行錯誤の結果につくられる。
現代に合っているのか、長い年月を超えられるほど本質的か
それが本当に自分のすべきものだろうか
こういう事を突き詰めて考えた末にものをつくる人がどれくらいいるだろう。
私は本当に甘かったなと思う。
自分の視点で、自分よがりで考えていたなと思う。
客観性を持っていたつもりになっていて人の事を気にしていたというだけのことで
分析や研究と呼べるほどの試行錯誤はできていなかった。
社会の中で生きていなかったと思う。
自分の世界の中で生きてきたなと感じる。
自分の中から生まれる作品であることは間違いないのだけど
受け取る人は私の世界の中に生きているのではなく
社会の中で生きている。
誰かの作品という世界に没入できる面白さというのは
社会とコミットしているからこそ通じるものだと感じた。
まだまだだなーと自分に思いつつも
それを素直に理解できただけでもだいぶ前進してきてるのを感じる。
今までは「いやいやでも」みたいな反抗的な気持ちがわいていた。
自分のことを正当化したくなったり
弁解したくなった。
でも今の私はそこにはいない。それだけは確かにわかる。
変わろうとしている。
それは願望とか意固地さからではなく
本来の自分がやるべきことに向かって目を開いている感覚。
それを実行して形にしていくんだという感覚。
これは0を1にする作業で
1にできれば進むのはわりかし早い。
けれどこの0を1にするというのが一番時間がかかり
一番重要な部分だ。