自分に優しくすることは、人に優しくすること。

自分の身近にいる人に

どれだけ優しくできるだろうかと

最近よく思っている。

 

もちろん私も人間なので

「この人はちょっと濁りを感じるな」とか

「ちょっと偉そうだな、傲慢さがいやだな」と感じる人は

知人でも身内でも距離を置くようにしている。

誰をそばに置いて誰と離れるかということは

想像してる以上に自分の心に影響を及ぼしているから。

 

それはちょっと置いといて

「私の身近」という言葉には

私の音楽を好きでいてくれる人たちの存在も含まれている。

 

私の元には「辛かった」という内容や

「今まさに辛い」という内容のメッセージを送ってくれる方がいる。

何通もやりとりすることはないのだけど

「あなたの話を聞いたよ」という想いを届けるという意味合いで

一通は必ず返すようにしている。

ここ最近もいくつか、そういう言葉が届いていた。

 

辛い内容の告白というのは

短い文章で終わらない場合も多いので

その全部をしっかり読んで、相手の背景を想像してから

自分の言葉で返す(これもなかなか短文にはならない)というのは

まあまあ心を使うことだし、時間もそれなりにかかる。

なので私自身が制作中の時や考え事があるときなどは

何週間か返事が遅れてしまうこともある。

 

それでも体力気力がそこに使える余裕がある間は

続けていきたいと思う。

 

孤独な気持ちや、悩み事を抱えているときに

話ができる場所、それを受け止めてくれる場所があるというのは

解決できるかどうか以上に大切なことのように感じる。

 

私もつい最近、困りごとがあって

行政やNPOなどいくつかの場所に相談したのだけど

どこも真剣に相談に乗ってくれた。

結果的に解決に繋がったかといわれるとそうでもないのだけど

それでもこの社会には話を受け止めてくれる場所が用意されていると

知っただけでも私の心はいくらか救われたし発見にもなった。

(ぞんざいに扱われて傷ついた経験がある方もいるかもしれない。)

 

受け止めてもらえるというのは

自分以外の人が存在してるから起こること。

そういう経験をすると

「自分ひとりでがんばらなくてもいいんだな」と思えるし、

それは周りの人に対しても「自分ひとりでがんばらなくても

何かあったら話してね」という眼差しを向けることができる。

 

こういう経験をする前から私はひとつひとつに返事をしていた訳だけど

それもこれも、心というものを大事にして音楽をしているからだという事が大きい。

私は自分のやっていることと、自分が言ってること、自分が思っていることには

なるべくギャップや嘘がないようにしたいと思って過ごしている。

 

「あなたが大切です」と口で言っておきながら

「実は利用したいだけなんだけどね」と心で思っていたら

それは相手に嘘をついてる以上に

自分自身に嘘をついていることになる。

自分に嘘をついてることが増えれば増えるほど

自分というものを見失うことに繋がると思っている。

自分に誠実に生きるとは

相手に誠実に生きるということに繋がるのではないかな。

 

私の中では相手がどんな人かに関係なく

私に声をかけてくる人があれば、相手の話は聞く。

私は私の都合で生きているので

返事の時間やその後も返事を繰り返すかなどは

私のコントロール下で判断するけれど

とにかく最初は必ず聞くと決めている。

それは相手をぞんざいに扱わないという決め事が自分の中にあるからで

それは自分をぞんざいに扱ってないからこそできる事だと思っている。

 

そして「自分に優しく生きることが大切なんだな」

「自分の声を本当に大事にしてあげることが大切なんだな」

と最近は特にそう思い、気にかけているので

自然と今まで以上に

いかに目の前にいる相手に優しくすることができるだろう

という想いに繋がっている。

 

それでもたまに人と話していると

「どうしてこの人はそんな冷たいことを言うんだろう」とか

「薄情な人だなあ」と感じるときがある。

けれどそういう人は、自分自身に対してそういう扱いをしているから

他者に対してもそういう扱いになるのだろうなと思うようにしている。

そうすると幾分か哀れみの目線で見ることができる。

「自分に冷たく薄情に生きるのはさぞかし生き辛いだろうなあ」と。

ここで哀れみではなく相手を責めるようなジャッジをしていると

自分の気持ちもざわざわすることに繋がる。

 

自分が他者に対してする行為や思うことは

ひごろ自分が自分に対してしている行為とも思うし、

他者にしたことはそのまま自分に返ってくるとも思っている。

 

だからなるべく濁った気持ちをもたないように気を付けている。

怒りひとつとっても

私の中では濁った怒りと、濁っていない怒りとに分かれる。

それをこの気持ちはどちらなのかを毎回見分ける。

 

でも生きてれば何度でも濁るものを持つ。

昨日もモヤッとした気持ちを抱いた。

それはそれとして事実なので受け止める。

完璧じゃないのでそういうのは何度でも出てくる。

でも大事なのは。出てきた後に自分がどうあるかということだ。

それをそのまま表現してしまうのか

それともそれを鎮めるのか。

私は最近は後者を選ぶようにしている。

それが私のやりたいことではないから。

 

ありたい自分、あるべき自分、望む自分でいたいと思うとき

目の前にやってきたことをどう返すのか

そういうことのひとつひとつを

自分の中で見極めてからアクションしたい。

 

周りのことをコントロールすることや避けきることはできない。

けれど、その影響を受けたあとに

そこから自分がどうあるかを選択することは自分で出来る。

そこにもっと意識的に生きていきたいと思うこの頃。