零の新しい絵を掲載しました!

今回は新しい試みで・・・

私が欲しかったデザインの絵を描いてみました。

それも一色の重ね塗りのシンプルな作品です!

絵を飾りたかった頃、シンプルなものが欲しいのに

調べるとなかなかにシンプルな一色の絵がなかった事を思い出し

自分で作りました。

こちらになります!

 

今回のこの絵はお好きな色を2枚セットで

送料無料でお届け致します!

 

初夏が近づく季節に新しいインテリアのひとつとして

シンプルですっきりとした絵を飾るのはいかがでしょうか。

以下より飛んでいってください!

https://www.creema.jp/item/11605338/detail

あなたを思えばまだ生きていけます

4月の手紙の一節。

憧れと恋についての時間をお届けします。

出会いと別れがあるというのが

人間として生まれたことの幸せであるなと

私は感じたりします。

もちろんその中には自分の未熟さから傷つけたり

後悔の出来事もあるのですが・・

そういうのを振り返る時間をもつというのも

また人間らしいなと思ったりしています。

 

思い浮かべるというのは

なんだかその相手に心の中でもう一度会っているような

そんな気持ちにさえなります。

 

あなたは誰の姿を思い浮かべますか。

昔の恋人。

離れて住む家族。

幼なじみ。

先生。

 

生きることがつまらなくなる人

昨日強力粉買って作ったパンがいまいちだったので

今日は粉を使ってココア味のうさぎクッキーを作った。

美味しかった!

 

夜はひき肉を使ってなんちゃってサイコロステーキ。

おろした玉ねぎをいれて作るソースはハズレなし。

 

ある日は曲を作り、詩を作り、

ある日は料理を作り、フェルトを作り

ある日は絵を描き、植物に水をやり。

なんかをしている日々。

 

生きてることにつまらなくなる人は

人生の楽しみは消費することだと思っている人が多い

という言葉を最近見た。

例えば服を買う、とか、レストランに行く、とか。

お金を消費して何かを楽しむというやり方。

それもそれで最高に幸せなことなのだけど

何が足りてなくてつまらなく感じるかというと

それはその人に「作ること」が不足しているからだそう。

 

確かに私は去年あたりから何かしらずっと作っている。

うまくいかなくてうおおと思う日があったり

しょへすんと打ち合わせで言い合ってうおおと思う日はあれど

生きることがつまらないと思う日はないことに気づく。

 

作ること、生み出すこと。

自分が思っている以上に大切みたいだ。

でも毎日毎日家族のために料理を作ってるお母さんや

もしかしたらお父さんがいたとしたら

作るが義務になってしまったら、それはそれで苦痛。

いくら好きでも得意でも

義務感や体調が悪い日もやらなきゃになると

作るという力をもってしても苦しさが増すだろうから

おそらくここでいってる「作る」というのは

自分からやってみたいと素直に思ってやってみたことだったり

その結果が損得とかお金になるならない関係なく

興味を持ったからやってみたというような

作る行為に大きな期待や負担をかけすぎない作るなのかな

と想像したりした。

 

生きることが退屈だな〜と思う日が増えてきたら

試しに何かしら作ってみるのをおすすめします。

お家でできること、、、

お菓子作りパン作り糠床造り

折り紙や粘土やDIYやタネから植物を育ててみる事や

楽器を弾いてみたり写真を撮ってみたり

色々なことがあったりします。

自分を知り、それを出していくことはなぜ大切なのか。

昨日書いた自分らしさについての話。

 

そんなことわざわざするの!?と思う方もいるかもしれないけど

これからはもっとこういう「自分を知って自分を出して生きること」は

自然のことというか当然のこととされていくと思っている。

 

美容院でみた雑誌に

アメリカで働く女性(広すぎるけど。笑)についての

記事があった。

アメリカで働く女性のキャリア相談の

第二位が「リブランディング」だそうだ。

 

これを見た時に「まじかー!!ほえー!!!」と思った。

リブランディングなので

ブランディングした自分をどうもう一歩新しい自分に

ブランディングし直すか。

 

恐らく転職などするときに

今までの自分らしさからどう脱皮するか

もしくはそれをより魅力的にするためにどう変化させるか

ということを考えるのだろう。

「自分の売りってなに?」というところ。

それは言い換えれば「私らしさってなに?」にも近い。

私という武器ともいえるし、色々な言い方ができる。

 

自分という個性をどうみせていくか

そしてそれをどう変化させてさらに良くしていくか。

ブランディングというと

商品や企業が使う言葉だと思う方もいるかもしれないが

もはやどこに自分が所属しているかという肩書きが大事になるのではない。

直接「お前ってどういう人間なんや」という所が重要視される。

終身雇用がなくなっていくのでそれは想像ができる事だと思う。

 

ミュージシャン、アーティスト、モデル、お笑いなどは

自分をどうブランディングさせるかというのは

当たり前のこととして考えるものだけど

日本で自分をどうブランディングしていくのかということを

人前に立つ人以外でどれだけ意識できているだろうか

おそらく数年内にも自分をどうブランディングしていくかなどは

一般的に当たり前に目にすることになると思う。

 

私はOLだから・・とか私は営業だから・・とか

私は主婦だから・・とかそんなことは関係ない。

あなたはあなたです!!!!

それをもっと自覚して楽しい方に自分を動かしてってください!

と背中を押されているようだ。

 

しかしそれって「なんだか自分を売り物にして売らせようとしてるみたいで

なんだかいやだわぁ〜」と

お金や金持ちに抵抗心を持ちやすい人が多い日本では

自分をブランディングするということを

ずる賢いとか純粋ではないなどという思いをもつ人も多いかもしれない。

けど私はブランディングという横文字がそういう雰囲気に

させるのではないかな、と思う。

 

その中身というのは

自分として生まれた命を自分が動かしていく

その際にどう生きていく

どうアクションするのが自分にとって幸福や面白さにつながっていくのか

人生の豊かさにつながるのかということを

自分の頭で考えて自分で選択して生きていく

という自立的な生き方をしていこう(本来自然な生き方)という

至極当然なレールにようやっと乗ろうとしているのではないかなと

私は感じたりする。

 

誰かの言う通りにすれば安心かもしれない、楽かもしれない。

けれど楽な人生が楽しいかと言われると、そうとも言えない。

むしろ少し怖いくらいの方がドキドキして楽しいかもしれない。(人の気質と状況による)

安心だからといって自分がやりたくない事をやり続けるのは辛い。

辛さとひきかえにしないと安心は手に入らないのだろうか?

そんなこともないような気がする。

むしろ大安心などというのは、公務員であれどないのではないかな?

人はお金に困らなくなれば健康が気になりだす

健康が困ってないと将来が気になりだす など

人はないものや起こりそうなものに不安感を抱きやすい生き物だと思うので

「そもそも人はどんな状況であれ不安を持ちやすい生き物なのだ」と思うと

無い物ねだりのように安心しようという動機で何かをするよりも

自分の人生をどう楽しむか、後悔が少ないように歩むかという方向で考えるほうが

積極的な気持ちが出てきそうだ。

 

病は気からなんて言葉がある通り気分はとても大切で

動きやすくするには深刻さを減らすような考え方に自分を引き寄せていく

自分を前向きな気分にさせるものを身の回りに意識して集めるなど

そういう工夫はわりとできたりする。

 

長々と二日にわたって自分らしさについて書いたけれど

その気分作りというのは音楽はとても心強い道具だと思っている。

そういう意味でも聴いてくれる人が

「自分の人生も色々あったけど悪いものじゃないな」とか

「もう少し頑張ってみたくなってきた」と思えるような音楽を

この先はどんどん作ってお届けしていきたいと思ってるこの頃です。

自分らしさの知り方

私らしさってなんだろうと思う人は少なくないと思う。

そもそも「あなたらしさはこれです!」というような

一個だけ出して終わるようなものではないから

簡単な言葉だけで終わらせようとするのは危険な香りがする。

 

私が思う自分らしさを知るためのヒントの話をすると

「誰かから何かを言われた、誘われた」などの出来事があったときに

その出来事が「面白いな、良いな、ワクワクするな」と

感じるときは、自分が居心地がよくポジティブに感じているので

無理をしていない状態=自分がそのままでいられている=自分らしさ

という感じがする。

 

そんなのわかんない!という方には

真逆のネガティブな方から考えてみるといいかもしれない。

「あの時ああ言われたのが傷ついたな」

「あれはやりたくなかったな、辛かったなあ」

と思えるものは居心地が悪くネガティブに感じるので

無理をしている=自分をまげないといられない=自分らしくいられない状態

と考えてもいいかもしれない。

 

んがしかし

冒頭で簡単な言葉で終わらせるのは危険と言ったのは

その自分が感じたことさえも、状況や環境でたやすく左右されたりする。

例えば

「本当はアクティブが私の良さなのに最近アクティブになれないのは

本当は私って引き込もりたいのかなあ」とか

あれ自分が想像してた自分と違う・・!となった時とかは

上記のアクティブでいうと

蓋を開けてみると単純にそのとき疲れてたとか

知らない間に何かで傷ついていてナーバスになっていたとか

自分ではわからなかったけど熟睡できてなくて寝不足だったとか

だからひとりになりたいと思っていた(当たり前の欲求)のを

「こんな風に思うなんて本当は私って・・」みたいに

疑心暗鬼になって「私がわからない!」となったり。

繊細で些細な出来事によって自分の状態が左右されることというのは

人間想像以上に多いと思っている。

 

そのため

疲れた状態で自分の心地良さ=自分らしさだと思ってしまうと

「誰とも会わないでひとりでいるのが自分らしさなんだ」と思い込むことになる。

なので自分らしさとはその時その状況その状態でわりと変化する。

仮にコントロールされない主体性や自分の軸を健全に持つことができたとしても

それでも天候や気圧などの環境で左右される場合も大いにある。

そしてそれは悪いことではなく自然なことなのだと思う。

抗うよりも完璧な自分を作ろうとするよりも

自分の内面にアンテナをたてて

「多分疲れてるんだろうな」「食生活が乱れてるのもあるかもな」など

その状態を納得して受け入れられる理由を発見できた方が生活しやすい。

自分を理解してくれる友達が自分の中にいたら、かなり生きやすくなる。

 

なのでなるべく自分が疲れてるとか不快な気持ちじゃない

フラットな時の自分が感じる感覚を参考にしたい。

(その時を見極めるのも難しそうだが)

 

私の場合はどうだろうか。思い当たることを書いてみる。

・楽しい!面白い!のアンテナに引っ掛かったことはやってみたいので

そういう誘いとか自分にとってテンション高まる出来事大好き

(例えばいきなり出会った小林さんに「いきなりですが

中国でライブしませんか?」とか言ってもらえたこととか。)

 

・勢いがある分、うまくいかないことがあるとすぐ萎える。

立て直しにわりと時間がかかる。

 

・肌に合わない環境にいるとすぐストレスがたまる。

 

・自然やささやかなものが好き、いろんな物づくりも好き。

 

・知的好奇心がある。興味があるのとないのに対する温度差激しい。

 

実際この上にあげたやつも

・疲れてるとテンション高まるどころかシンとしてたくなる。

自然のささやかさはわりとどんな時も好意的に感じる。

ものづくりやインプットも余裕がない時はやりづらい。

・逆に余裕がある時はストレスがたまりそうな場面でも

うまい具合にすり抜けたり気分転換できたりする。

などの真逆の時はこうなるよねーってのも理解しておく。

 

このように「自分ってこういう傾向があるよなー」と書きつつ

でも「ここに出てないけど実はあなたってこれが一番特徴的なのよ」

みたいな他者からみた自分らしさという部分もあるだろうなと思いつつ

こういうことを書き出すと

「そしたらこれを元にどう動いてったら自分がらしさ全開で

逆に言うと弱点をするっと抜け出していきやすくなるのか」みたいな

自分の戦略がたてやすくなる。

 

まだ続くのだけど相当長くなってしまうので

私が自分を知ることがなぜ大切かと思っているかという話を

明日書きたいと思う。

 

あなたは全てを知っている

震える怒りを抱き締める

その根源にある悲しみに口付けを

苦悶の日々を終わらせるのは

復讐の手ではなく

祝福のための決心を

数え切れない悲しみに抱擁を

数え切れない無念に抱擁を

数え切れない苦しみに抱擁を

そして自らを幸せに向かわせる為の一歩を

それは夜明けのように

優しく淡く全ての心を照らすだろう

あなたがあなたを幸せにすると誓うなら

誰もあなたから奪うことはできない

その悲しみと繊細さの奥にある

清らかな逞しさを

朝日に照らし輝かせろ

あなたがあなたであるという誇りを胸に

必要なものは全てあなたの中にある

今の自分の波長に合う人が寄ってくる。

面白い人がいることをたくさん発見しているこの頃。

これだから人間をやめられないなぁ。

自分がしたいこと、いきたい場所が

面白い人たちの発言や姿勢でどんどん研ぎ澄まされ

自分がより深堀りされる。

具現化させて沢山ものづくりしたい。

今は本や画面の中にいる人から刺激を受けるところから

実際にそういう人たちに囲まれて生きていきたい。

個をどんどん研ぎ澄ませていくと

自然とそういう人たちに出会っていくのだろう。

波長が合う人たちに囲まれるというのなら

今は準備期間なのだろうと思う。

自分が作るものアクションするところから

他者と手をとって新しいところに広げていく

ワクワクするなぁ。

ワクワクすることを想像して心を温かくして

眠りにつく。

心が面白がることをしていきたい。

どう生きていきたいかをもっと鮮明にさせていく。

開く

私の中で「この人は良いなぁ信頼できるなぁ」と

思える人のポイントに

「同性でリスペクトしている人がいる」というのがある。

一緒に何かをする人達は男女問わずこれに該当している。

 

 

これは私の個人的な感想なのだけど

同性を尊敬できる人というのは

心が自然体で開いている印象を受ける。

今の自分という存在を高く見積もることも

低く見積もることもしていないというか

(もちろん落ち込むこととかはあるだろうけど)

「素でいる」という感覚。

 

シギを好きになってくれる女性も

ひとりひとりの人間性はもちろんだけど

同性を好きになれる応援できるという点においても

素晴らしいなぁと思うし信頼もしている。

特にシ組に参加してくれる女性陣には

尊敬すると同時に、すごいなぁと思う。

同性で良いなぁと思う人がいたとしても

ファンクラブに入るって本当にすごいと思うし

そういうアクションを自分の意思でとれることが

本当に素敵だなぁと思う。

 

そして最近発見したことがあって

同性で尊敬したり好きになる人というのは

「自分が元々持っている要素の延長線にある」

という場合が多いということを実感している。(現在データを集め中)

 

シ組のラジオで話したのだけど

私の場合だと中性的でエネルギッシュで

意思のある女性に惹かれる。

そして私のことを好いてくれる女性も

私が上にあげたような特徴を持つ方もいるし

見た目に中性的じゃなかったとしても

心の中が熱かったり意思が強かったりする女性ばかりで

そして私自身もその部類に入ってると認識している。

 

これを気づいた時に

「憧れや好きって自分にない部分を持つ人かと思ってた!」と

驚いたと同時にとても面白かった。

 

そしてこれは非常に健康的なことだなあと感じた。

というのも、「自分という存在」があって

「憧れる存在」が自分と似た香りがするのだとしたら

それは自分自身を認めているのと同じなのではないかと思った。

自分という存在をもっとブーストしたいということだから。

 

同性で憧れがいないとか抵抗感やライバル心が強いという人が

悪いかというとそういうことを言いたいわけではない。

そのような人の中には

ひとつには純粋に人の存在を多く知らないだけという情報不足がありそう

もうひとつには自分自身の良さに気づいていないということがありそう。

決して悪いというわけでも、劣っているというわけでもない。

他者が見ると「あの人のあそこ素敵だわねえ」と思ってても

当人は自分という存在が近過ぎて気づいていないか

それを大したことだと思ってない場合もありそうだ。

自分の良さを感じられていないと、自信もなくなるのは自然な流れで。

 

異性より親和性のある同性に対して

自信のない心を自然と防衛するという意味での

負けたくない気持ちや抵抗感がでるのかもしれないなあと

思ったりした。

異性は自分と違う部分がある分

そういう抵抗感はわきづらい気がする。

「まぁ自分とは違うからね」と思えるから。(正確にいうと同性も違うのだが

親和性という点で似ている部類にいれている。)

とはいえこれはただ私が勝手に頭で思い浮かべたことを

つらつら並べているだけのものなので

当たっているかどうかは定かではない。

 

同じ時を

強い想いは超えられるだろうか

ここを

手を伸ばせば届く場所まで

私は走っていけるでしょうか

あなたの言葉に背を押されても

あなたは遥か遠く

眩しさに目を瞑らず

立ち止まらず

想いを胸に抱き締めて

ひとつずつ乗り越えていく

自分に優しくすることは、人に優しくすること。

自分の身近にいる人に

どれだけ優しくできるだろうかと

最近よく思っている。

 

もちろん私も人間なので

「この人はちょっと濁りを感じるな」とか

「ちょっと偉そうだな、傲慢さがいやだな」と感じる人は

知人でも身内でも距離を置くようにしている。

誰をそばに置いて誰と離れるかということは

想像してる以上に自分の心に影響を及ぼしているから。

 

それはちょっと置いといて

「私の身近」という言葉には

私の音楽を好きでいてくれる人たちの存在も含まれている。

 

私の元には「辛かった」という内容や

「今まさに辛い」という内容のメッセージを送ってくれる方がいる。

何通もやりとりすることはないのだけど

「あなたの話を聞いたよ」という想いを届けるという意味合いで

一通は必ず返すようにしている。

ここ最近もいくつか、そういう言葉が届いていた。

 

辛い内容の告白というのは

短い文章で終わらない場合も多いので

その全部をしっかり読んで、相手の背景を想像してから

自分の言葉で返す(これもなかなか短文にはならない)というのは

まあまあ心を使うことだし、時間もそれなりにかかる。

なので私自身が制作中の時や考え事があるときなどは

何週間か返事が遅れてしまうこともある。

 

それでも体力気力がそこに使える余裕がある間は

続けていきたいと思う。

 

孤独な気持ちや、悩み事を抱えているときに

話ができる場所、それを受け止めてくれる場所があるというのは

解決できるかどうか以上に大切なことのように感じる。

 

私もつい最近、困りごとがあって

行政やNPOなどいくつかの場所に相談したのだけど

どこも真剣に相談に乗ってくれた。

結果的に解決に繋がったかといわれるとそうでもないのだけど

それでもこの社会には話を受け止めてくれる場所が用意されていると

知っただけでも私の心はいくらか救われたし発見にもなった。

(ぞんざいに扱われて傷ついた経験がある方もいるかもしれない。)

 

受け止めてもらえるというのは

自分以外の人が存在してるから起こること。

そういう経験をすると

「自分ひとりでがんばらなくてもいいんだな」と思えるし、

それは周りの人に対しても「自分ひとりでがんばらなくても

何かあったら話してね」という眼差しを向けることができる。

 

こういう経験をする前から私はひとつひとつに返事をしていた訳だけど

それもこれも、心というものを大事にして音楽をしているからだという事が大きい。

私は自分のやっていることと、自分が言ってること、自分が思っていることには

なるべくギャップや嘘がないようにしたいと思って過ごしている。

 

「あなたが大切です」と口で言っておきながら

「実は利用したいだけなんだけどね」と心で思っていたら

それは相手に嘘をついてる以上に

自分自身に嘘をついていることになる。

自分に嘘をついてることが増えれば増えるほど

自分というものを見失うことに繋がると思っている。

自分に誠実に生きるとは

相手に誠実に生きるということに繋がるのではないかな。

 

私の中では相手がどんな人かに関係なく

私に声をかけてくる人があれば、相手の話は聞く。

私は私の都合で生きているので

返事の時間やその後も返事を繰り返すかなどは

私のコントロール下で判断するけれど

とにかく最初は必ず聞くと決めている。

それは相手をぞんざいに扱わないという決め事が自分の中にあるからで

それは自分をぞんざいに扱ってないからこそできる事だと思っている。

 

そして「自分に優しく生きることが大切なんだな」

「自分の声を本当に大事にしてあげることが大切なんだな」

と最近は特にそう思い、気にかけているので

自然と今まで以上に

いかに目の前にいる相手に優しくすることができるだろう

という想いに繋がっている。

 

それでもたまに人と話していると

「どうしてこの人はそんな冷たいことを言うんだろう」とか

「薄情な人だなあ」と感じるときがある。

けれどそういう人は、自分自身に対してそういう扱いをしているから

他者に対してもそういう扱いになるのだろうなと思うようにしている。

そうすると幾分か哀れみの目線で見ることができる。

「自分に冷たく薄情に生きるのはさぞかし生き辛いだろうなあ」と。

ここで哀れみではなく相手を責めるようなジャッジをしていると

自分の気持ちもざわざわすることに繋がる。

 

自分が他者に対してする行為や思うことは

ひごろ自分が自分に対してしている行為とも思うし、

他者にしたことはそのまま自分に返ってくるとも思っている。

 

だからなるべく濁った気持ちをもたないように気を付けている。

怒りひとつとっても

私の中では濁った怒りと、濁っていない怒りとに分かれる。

それをこの気持ちはどちらなのかを毎回見分ける。

 

でも生きてれば何度でも濁るものを持つ。

昨日もモヤッとした気持ちを抱いた。

それはそれとして事実なので受け止める。

完璧じゃないのでそういうのは何度でも出てくる。

でも大事なのは。出てきた後に自分がどうあるかということだ。

それをそのまま表現してしまうのか

それともそれを鎮めるのか。

私は最近は後者を選ぶようにしている。

それが私のやりたいことではないから。

 

ありたい自分、あるべき自分、望む自分でいたいと思うとき

目の前にやってきたことをどう返すのか

そういうことのひとつひとつを

自分の中で見極めてからアクションしたい。

 

周りのことをコントロールすることや避けきることはできない。

けれど、その影響を受けたあとに

そこから自分がどうあるかを選択することは自分で出来る。

そこにもっと意識的に生きていきたいと思うこの頃。