傾聴の会をやりませう。

興味があってやってみたいことの中に

「コミュニケーションの学びの実践」がある。

特にその中に「傾聴」がある。

 

傾聴とは…相手の立場にたって相手の話を聞くこと。

相手の話を善悪や好き嫌いなど評価をつけないで聞くこと。

 

「相手が嫌がることはやらない」とかは教わったけど

コミュニケーションってあんまり教わってこなかった気がする。

喧嘩した時にどう着地したらお互いに良い経験値になるかとか。

人間ぶつかるのは当たり前だから

相手とぶつかったときに最低限守る方がいいルールとか

そういうの子供の時に大人から教わったりしたかな?

「喧嘩はよくない」は聞いたことあるけど

でも大人でも喧嘩してるし

「しちゃだめ」じゃなくて「しちゃった時にどうすればいいか」

の方を教える方が現実的なのになと。

そう思ったけど、大人自体がそのまた大人から教わってこなかったり

深くその事について考える時間がなかったからわからないのかもなって。

 

 

 

その中で傾聴がなんで出てきたかというと

私は身内の問題とかで

どうにもならないような事があったりする。

その時にしょへさんが聞いてくれたり

しょへさんにも身内の問題があったり

そもそも全く問題や不安がない人なんて

いないんじゃないかなと思ってて。

 

多かれ少なかれみんな何かを抱えてたり

解決できないことを引きずってたり。

 

それを誰かに打ち明けた時に

否定されたり嫌な指図を受けたりして

そうなるとより話したくなくなって自分だけで抱え込んでしまったり。

 

お互いが相手に思いやりをもって

心を開示して打ち明けあって

ジャッジをされずにうなずいて聞いてくれる場所があったら

ポジティブな効果がでるんじゃないかなと想像した。

 

この間ひきこもり白書に関する記事をみた時も

「自分が安心できる居場所が見つかったことで

肯定的に人生を考えられるようになった」と答える人が多いのを知って

だよねって思った。

 

日本の人って真面目な人が多いから

頑張りすぎたり我慢しすぎたり自分に厳しくしすぎたり

それが辛くなって人に対して冷たくしちゃったり。

 

「どの道を行っても、あなたがそれがいいって思って

色々調べた結果そうするって思ったなら行ってみなよ。

もし傷ついたり困って話したくなったらまた話をきかせて

一緒に考えられるならどうしたらいいか一緒に考えよう。」

私は人に対してそう言いたいし

そう言ってもらえた方が嬉しい。

 

そういう場所を意図的に作って

否定せずに開示しあう場を作ったら

どんな気持ちになるだろう・・・やってみたい!

と思って、しょへに話してみて

「今の我々の身分で我々の感覚にあいし稀有な者は(私たちと話をしあってくれる人は)・・・大樹しかいない!!!!」となり

大樹を誘ったら快諾してくれたので

今度そういう傾聴の会をやってみることにした。

 

 

3人とも身内問題については事欠かないのでその話か

大樹だったらジェンダーについての問題についてどう思うか

男性として生きていて辛かったことや不便があったかとかを

話し合っても面白いなと思う。

 

実りが多かったらワークショップをしてみてもいいかも。

否定せずに打ち明けあえる場所が必要な人や

そういう場所に行ってみたい、話を聞いて欲しいと思う人って

少なくないんじゃないかなと思っている。

 

辛いのは問題や心配事があることじゃなくて

それを誰にも打ち明けられなかったり

勇気を出しても否定されたり

雑な扱いをされることなんじゃないかなって。

私はそういう思いをする人が減ってほしいと思っているし

私自身も自分の弱さ未熟さや本音を打ち明けられる場所を作りたいなと思っている。

生きるとは選ぶこと

10月手紙。

生きていると自分の中や他者の中に

さまざまな思惑が生まれる。

「あなたはこうすべき」とか

「あなたにはがっかりした」とか

一方的にジャッジをしてくることもあるし

自分が無意識に他者に対してそうしていることもある。

 

思うことや言うことは目に見えないから

(こうテキストにすれば目に見えるけれど)

思惑が目に見えたら街中がノイズで溢れると思う。

 

目に見えない呪いはその思惑に縛られた時に生まれる。

「女性は目が大きい方がかわいい」とか

「男性で収入が低いのは情けない」とか

「自分の好きに生きるなんてわがままだ」とか

そういうものを真に受けて縛られてしまう

そのうちに

「こんなこともできない自分はダメなのだ」と

自分自身でさえも自分に呪いをかけるようになる。

 

心に制限をかけるような思惑。

そこから脱いでも脱いでも思惑は存在しやってくる。

それが現実で

だけどそういうものなのだと認識したうえで

他者や自分自身の思惑に惑わされずに

正気で自分の幸せに向かって選択をしていくことはできる。

そのために今いる場所から離れる必要がある場合もある。

 

振り子のように心が揺れ動くこともあるし

凪のように静かなときもある。

外部で何が起こるかをコントロールすることはできないけど

自分がそれを受けたあとでどう生きていくかを決めることはできる。

そういう選択をして踏み出した人を肯定したい。

不安や困難もあるだろうに

自分で自分の背中を押した人を祝福したい。

そして私自身もそういう生き方をしていきたい。

 

生きるとは選んでいくこと。

自分の道を作っていくこと。

振り返ったり、立ち止まったりしながら。

最終的には足を前に踏み出すこと。

描いて作って食べて撮って見て

今日は1日中ものづくりをしていた。

といっても今日は音楽はお休み。

絵を描いたり零の新しい作品を作ったり

作品の撮影したり

クッキーを作ったり料理をしたり

サボテンちゃんをまたお迎えしたので

鉢植えしたり。

 

絵は3枚も描いてしまった!

今までとちょっと違うタイプのものができた。

そのうちの2枚は1回では完成しないのでまた明日続きを。

雨が降っていたので一歩も外にでずに

家の中でずっと何かを作っていた。

こんな日は結構久しぶりなんじゃないかな。

芸術の秋!という感じだった。

 

今日はメイドの手帖というドラマも見たり

これ面白かったので続けて見よう。

明日はメトロポリスを見て

音楽制作の続き。

派手ではないが

地道にも楽しいひとときを過ごしている。

ものをつくること

ものをつくるとはどういうことなのか

感じる、考えることが増えた。

前にラジオかなんかで

作品が残る以上はゴミにならないようにしたい

と言ったことがある。

作品で誰かを不快にすること そぐわないこと

残ること自体がゴミになりうるということ

その事実はあると思う。

けれど自分の作品が10年後、50年後もどこかに落ちていたときに

それを誰かが拾ったときに

それが必然であったと思えるようなものであれたらいいなと思う。

私はこの社会の中で生きている一員であって

その中で自分が果たせることとはなんだろうと

それを考えて、表現すること

このことに終わりはなくて

考え続けること 表現し続けること

それが社会の中で生きている

生かされている人間として

できることはなんだろうという気持ちから

作品に向き合うようになった。

道を開くために作品を作らずとも

この先に道は開かれていくのだなという

証拠はないけれどそう確信する心が存在する。

保護中: シ組ブログのアーカイブ集その2

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早速、夢叶う。

つい一つ前のブログで食器を好きなもので揃えたいと

書いていたのですが

その後になんと。。。

食器をお作りになられている方(礼儀)と

とっても素敵な出会いがあり・・

「こんな出会いが欲しいなぁ」と思っていた感じが

まさに具現化されたようなもので・・

驚きと喜びでお皿をお迎えしました!!!!!!

 

素敵すぎいぃぃぃぃ!!!!!!

私のサボテンちゃんもちょこんと友情出演。

 

手触りがすごく気持ち良くて

手作りならではの味わい深い形。

まさに私が求めていたものが

まさかまさか数日後に手に入るとは。。。

人生には三つの坂があるとは聞いていたが。

驚きがすごい。

そして素敵な出会いまでしてしまうとは。。。

 

という興奮気味な数日を過ごしました。

ひたすら自分に関心を寄せる

一年くらい前だったかな。

日常の時の自分が音楽において大切なのではとふと感じた。

それまでの音楽は

日常よりも重きがおかれてて

それはどこか義務感のような所から離れられない部分があった。

でも表現は義務ではない。

もっと自分で明確に触れられることと

イマジネーションとの合体こそが

自分には必要なのかもしれないなと感じだした。

それから自分が興味を持つものを始めたりなんだり。

その中で最近、食器を自分が好きだと思うものだけで固めようと思うに至った。

所有する数自体は少なくて済むので

個人の作家さんなどから直接買いたいなと思うに至った。

そごうなんか立ち寄った時には

食器売り場を見るのが前から好きだったんだけど

この間久しぶりにそういう所に行って見てると

「この手に持った時に感じる丸みが良いですね」

「この底の浅さがたまらんですね」

などぶつぶつ言ってる自分に気がついて

「私って自分の食器の好みを意識して言語化してこなかっただけでわりと決まってるんだな」と発見になった。

「私って好きなものないんですよ。」

という言葉をたまに見たりするけれど

自分をもっとじっくり細かく日常的に観察していれば必ず見つかるだろうなと思う。

忙しい毎日とかやる事の中でプライオリティが下がってしまってるだけで。

生活の中で特に私が好きな食に関するもの繋がりで食器に注目した時に

どんな素材のものが好きなのか

どんな形のものが好きなのか

どんな色合いやデザインが好きか

それを見ると触るとどんな気持ちになるのか

など細かく自分に注目してみると

新しく知る自分がいる。

そうやって自分の心地よさ、好きを追求して揃えていったりデザインして作っていくこと。

これも含めて私という表現になるのだ。

書かずにはいられない

心に感じたものを作品にしていく

自分の感じる美しさを形にしていく

表現に終わりはなくて

これは私にとってケアであり救いであり

これは苦しみであり喜びであり

つまり私が生きていることそのものなのだと思う

これがあることにより

いくつもの困難に感謝をすることができた

困難が私の作品という幸せに繋がるから

あの幸せに勝る感触はなかなかない

生きている実感そのものだ

その作品が例え人目に触れなくても

この幸せは減ることがない

書くことそのものが私にとって喜びだ

評価や優劣や勝敗は

それに比べれば取るに足らないことで

ただ表現すること

これに勝る喜びはない

湖の上に眠る

言葉のいらない優しさが存在する

言葉はないのに感じる気持ちがある

細かい説明のない場所

温かい日差しが降り注ぐ水の光

その湖の上に横たわると

傷口は少しずつ塞がっていく

あとはただ眠っているだけ