心スイッチ

二月十八日。晴れ。

今日は大切な食事会だったのだけれど

無事楽しく終わった!

今年に入ってからいろんな人に会ったり

いろんな変化が起こる予感があったり

その準備をしたり

その中で新旧問わず出会いがあったり

今までの私だったら

「もうむりー!!!つかれたー!!!」と

ぐったりして籠りそうだけど

今のところよく日々を過ごせている。

「しなやかに生きる」のしなやかの意味が

少しずつ体感でわかるようになってきた。

今まで「金属のように硬い意志だけど

硬いぶんだけ折れやすい」と言われてて

その自覚が自分にもあったのだけど

だんだん少しずつ感じられるようになってきた。

そしてそれができない時は

往往にして疲れているとき!だから考えない!と

思ってオフモードに脳みそをする。

やる気スイッチならぬ心スイッチというのは

オフにする時も必要なのだな。

祈り。

二月十七日。曇り。

恒例のお墓まいり。

乾燥しているからか最近綺麗だから

掃除の手間があまりかからない。

帰宅後部屋の大掃除。

夜は久しぶりの友人と食事。

相変わらず波乱万丈な友人だった。

年末に結婚したみたいで

みんな変化の日々なのだなぁと感じる。

出会い別れ出会い。

横浜、王子、池袋、自由が丘、茅場町。

今週は話したり聞いたりがぎゅっと詰まった一週間。

 

先日、大樹と話した。

大樹とは10代の頃から知っていたけれど

初めてちゃんと話した。

話してみると共通点が多すぎて驚いて嬉しかった。

類推ということを最近よく意識するようになったけれど

自分に近いものを感じる人と話すと

やっぱりその感じたものは間違いじゃないんだなと思った。

同じ日本人でも、全然話が通じない人と通じる人がいて

大抵通じる人というのは少ない。

経験や摂取してきたものが違うから感性も違うのは

当たり前のことなんだけど

それでも似たような人たちはいる。

ある程度の社交性があれば

違う種類の人たちとも合わせることはできるし

通じないからこその新鮮な学びもあるけれど

近しいものを感じる関係性は大切にしていきたい。

そこから生まれる化学反応を見てみたいから

一緒に音楽やりたいと伝えた。

気づいたら五時間近く話していた。

多分昔ではそうならなかっただろうな。

昔からの音楽友達が知ったら驚きそう。

妙なタイミングで、今の私たちだったから

きっと繋がったような気がする。

人はやはり出会うべき時に出会うのだな。

別れの選択は自分や相手の決断でする事もあるけれど

出会う瞬間というのは操れないことが多い。

オンドマルトノ弾いてくれた。

生で初めて聴いたけど素敵な音色だった。

これから先が本当に楽しみ。

生きている。

自分が人からどう思われるかということを

気にしていたらつまらないものしかできない。

誰に嫌われても

誰に笑われても

声にならないものの声を歌う。

必要としているものの元へ

必ず私は届ける。

必死で生きている人たちがいるから

手加減することはできない。

君こそが美しいのだ。

人の暗部に近づけば近づくほど

気休めなんていえなくなるけれど

その暗部に近づけば近づくほど

深刻になってもいけないと感じる。

暗部は核心に迫るほど美しく研ぎ澄まされる。

自分の中にある本当から

逃れなかった人だけが見せる美しさ。

そこから目を離せない。

「かわいそう」なんて気持ちは傲慢だ。

そんな言葉は本質から目をそらして生きている人間が

最も言うべきではないのにいつも気休めのように言いたがる。

そんな大衆の声の相手をする必要はない。

自分を卑下するな。君こそ美しい。

約束

二月十三日。晴れ。

日記を書く時間がなかった。

後ほどまるで毎日書いていたかのように

ねつ造しよう。

私は元気です。

雪予報に翻弄されています。

明日明後日と大事な日なので

雪降らないでください!

以上。

二月十二日。晴れ

映画「ビューティフルマインド」を見た。

え?まさか?あれはそうだったの?という展開で

面白かった。

「病めるときも健やかなるときも」というのは

このことか、と思うような映画だった。

友達も恋人も、いってしまえば家族だって縁を切ろう思えば切れる。

何もかも壊すこともできる。

それでも壊してしまいそうになるときも

いっそ壊してしまえと振り上げた拳が止まるのは

それまでに築いた時間があるから。

想いがそこにあるから。

一生懸命に生きていれば苦悩が当然に起こる。

美しさはその中にこそ生まれたりする。

見ないようにしよう、触れないようにしよう

そう避けて生きれば生きるほど本質から程遠くなる。

いっそ目の当たりにするんだ。

死にました。殺されました。

悲惨な事件がニュースになると

世間は怒りに包まれる。

憤り、悲しみに包まれる。

「信じられない」「最悪だ」「死刑だ」と

誰もが眉をひそめる。

その世間のひとりひとりに

「それでは具体的にその出来事に

憤りを覚えたあなたは何をしますか」と

マイクを向けたらどう答えるだろう。

「私は忙しいのでそこまでは」

「私だって大変なんだ」

「それは国がなんとかするしかない」と

立ち去ろうとする人がほとんどだろう。

そして時間はたち、悲しみや怒りは薄れ

その出来事も忘れ去られていく。

ニュースになるほどのインパクトに欠いた事件が

ひっそりと毎日変わらず繰り返される。

どうにかしなければ、と本当に心から思うことに対して

私ができることとはなんだろう。

私の立場でできることとはなんだろう。

自分の怒りや憤りを晴らすためではなく

本当の解決のためにできることはなんだろう。

 

変わる。

二月十日。晴れ。

もはや四日前くらいにさかのぼると

夏休みに天気を書き忘れていたくらい

天気が晴れだったのか曇りだったのかが

手探りになる。

二月がもはや日にちの感覚がほぼないくらい

激動だ。

コントラスト。

いろいろなものが自分の中に揃ってくると

必要なものとそうでないものが

必然と見えてくる。

それまでの道のりは遠回り。

たまに立ち止まったり。

この先もそう

遠回りのない人生が

立ち止まることのない人生が

どうして素晴らしいといえるだろう。

自分にしか感じられない道のりは

どんな道でも感じてしまえ。