アベマTVで男らしさについての話を興味深くみた。
「男らしさより、女らしさより、自分らしさ。」それがこれからの時代だという。
押し付けや抑圧が嫌な私からしたらこの先の時代のあり方には共感と支持しかない。
令和らしさは押し付けをしない。
「俺たちはこうだった、こうあるべき」というのが昭和らしさ。
令和でそれはうざい。自分の意見をいうだけでいい、というものだった。
ここは昭和62年生まれの私としてもとても気をつけている所で
音楽、言葉、とにかく何かを形にしている身としては
ついつい自分の理想論をあたかも全てに当てはまる理想として語りがちだ。
言葉の使い方も熟知しているので、人を自分の思う方にコントロールすることも
言葉を扱っている人間だと得意になったりする。
いや、得意というか自然とそういうやり方を会得したりする。
そしてその力を無意識に使ってしまったりする。
だからこそ、刃物を取り扱うくらいに気をつけないといけないと感じる。
私の意見は、私の言葉は、私の音楽は、全ては「私の目で見た世界」を伝えているだけ。
ブログとかでも「私は〜感じる」「私は〜思った」といちいちそう書く。
これも言葉のコントロール力を弱めるためにしている。
話を見たり聞いたりしている側は自然と自分に当てはめながら聞くようになる。
自分は当てはまらない、自分はその意見と違う、となったときに
「当てはまらない、違う私が悪いのかな・・」と思ったり
その逆に「当てはまらないあなたは間違ってる」と思ったり実際に攻撃するようになる。
ただの一個人の他者の世界観を自分に当てはめて落ち込んだり論破しようとしてはきりがない。
令和の理想が「自分らしさ」にあるとするのなら
自分がどういう世界観の中に生きたいか、自分がどうありたいか、
どういう人といたいか。そこの答えを見出していく。(その答えは年齢や経験と共に変わっていったりもする)
自分と対話し、望む世界のために、人と生きていく。
自分を生きる道のりをたどる途中に
他者の押し付ける価値観や我慢や美徳は必要ない、ということなのだろう。
個々人がコミュニケーションをとりあって
お互いの良いもの苦手なものを探り合う。
そう考えると、昔よりもひとりの人について密に理解しようとすることになる。
相手を知って、自分を伝える。
社会の中で自分を生きていくために、自分の生きづらさ、他者の生きづらさに
声をあげたり耳を傾けたりする。
他者のいう「〜らしさ」で当てはめるだけでよかった時代に比べたら面倒だ。
何歳になったら結婚するもの、男は強いもの、女は従順なもの。
そのカテゴライズに他者を当てはめるだけで済ます方が楽だ。
けれど時代はそれを求めない方向へ進んでいる。
なぜか。
それはひとりの人間として生きている意味をもっと大切にしよう
尊重しようと思う人たちの気持ちからだろう。
その過渡期にある途中だから、衝突や問題は起こりがちで。
「私は自分らしさなんてわからない、だせない、怖い、不安。」と思ったり。
「私がこんなに我慢してるのに自分らしく生きるひとが気に食わない。」と思ったり。
「自分を生きたいのに周りには否定する人しかいない。」と思ったり。
パワハラやセクハラとして社会的に表沙汰になることもある。
そのひとつひとつが、ひとりひとり違う人間が生きやすくするために
試行錯誤して少しずつ進んでいっている証しなのだと思う。
自分を生きるというのは、自分を活かすということ。
自分を満たすということ。自分に集中するということ。
社会の中で生きる自分の役割を見つけるということ。
無力さを知るということ。図太さを知るということ。
自分の味方になること。ただの自分と生きていくこと。