ニューヨークグラフィティシーンで活動していたライターのインタビューをみた。
私が最近うっすらと予感めいたものを感じていたものの断片が
言語化されているようで
このタイミングで出会えた事に必然を感じたくなるくらいだった。
ここ一週間ほどは半端なるものをシャットアウトして
自分が好きだったり尊敬する人の情報を集中して摂取していた。
自分の周りに常にそれを置いていた。
私の憧れの人は例外なく自分にストイックに集中して生きている人だ。
その存在をいつも見ていると少なからず影響を受けていることに気づく。
それは表立って「こうしたい!」と思うような影響ではなく
じんわりと自分の心理より深い場所で水が沁みてくるような影響の形。
自分がどれだけなまぬるい人間だったか気付かされる。
もっといけるというより、いける余白しかないとさえ思う。
それくらい私はまだまだ突き詰められていない。
私は今まで一体何をやっていたんだ。
気概が足りていない。ぬるいことばっかりしかしていない。
頭を使ったか、体を使ったか。
もっと書いて書いて書きまくれ。
ここでひとつ言いたい。
私の中で気概は気合とは違う。
気概というものは気合で作り出すようなものではない。
一過性のものでもない。
「全ては生活とスタイルの上にあらわれるのではないか」
これは誰かが言っていた言葉ではなかったんだけれど
急に自分の中から浮かんできたものだ。
気概や突き詰める精神力を保つためには
自分がいつでも自分に対して納得できる
土壌を整えている必要があるのではないか。
酒飲んで酔えばロック。
憂鬱になりながら曲をかけばアーティスト。
話はそんな楽なものではない。
やるべきことをやれ
目を見開いて現実を見ろ
自分の場所を整えろ
時間を自分の意思に基づいて使え
無駄なものを削ぎ落とせ
ようやく話はそこから始まる。
私はまだスタートラインにも立っていない。
この気づきを絶望ととる人間もいるだろうが
私からしたら楽しみでしかない。
自分がまだまだな人間だと自分に突きつけることは
お前はまだまだやれるという事と同義だ。
だからわくわくする。
自分の中の準備と覚悟が整っていくのを感じる。