理解の術

さっきのブログのように何かを知ったとき

それで誰かを責めるのではなくて

それで自分を正当化するのではなくて

誰かの生きにくさの中にはそういう要因も関係しているのかもしれないと

他者や自分を理解できる方角で使っていけたらいいなあと思う。

知識をそう使っていけたらいいな。

考えることの軽視。

イェール大学と日本の学校で教師を経験していた方の本を読んだ。

どちらもどちらなりの良さや悪さが書かれていたのだけど

日本の将来を考えた時に、この部分は直した方が良いという指摘があった。

それは、答えを暗記してテストに書けば良い点数が出るという教育のやり方。

これががどうして答えになったのか、

本当に答えなのかという吟味をすることもなく

子供達は答えとされるものを丸呑みしてテストに書く。

そうすれば良い点数が出る。それを大人が求めているから。

 

しかし、人生というのは答えがないもの。

そして答えとされているものも、時と共に変化する可能性があるもの。

自分の頭で考え、自分なりの答えを出すという力が人生においては

暗記よりも重要になってくる。

 

日本の生徒が静かなのは、発言することに価値を感じていないから。

間違えることを恐れるから。テストで正解さえすれば問題ない。

イェール大学の生徒は、皆の前で発言すること自体に価値を感じている。

先生にした質問が間違いだったとしても

先生や生徒が笑うことや否定することはない。

むしろ質問したことを評価する。

その質問の答えはノーだ、という事をクラスのチームに伝えることができたから

それはチームへの貢献だと捉える。

何もしない、黙っている人はチームに何も貢献していないのと同じ。

そういう発想は、私が学生の頃はみじんもなかった。

(日本を庇うわけではないが、日本の良い点は真面目で、整理整頓や掃除が行き届いているところだそう。)

 

答えを重視する、丸暗記して自分の頭で自分なりの答えを導こうとしない。

そうすると考える力がどんどん失われていく。

安易に答えを求めて、その通りに行動すれば安心だ、という気持ちになる。

そうすると、冒頭のように正解のない音楽で自分なりの答えを導こうと

前にブログで書いたような

考えに考えを重ねるしょへすんのことを「考えすぎじゃない?」

と言う人が出てくる。

これはその人のことを批判したいのではない。

考えることをあまりに軽視した教育の結果なのかもしれないと思った。

 

「物事をよくよく考える人=決められない、優柔不断な人」

という思い込みがどこかにないだろうか。

それに今の社会では「考えるよりも行動」「なんでもやってみる」という本が

よく売れている。売れているというのは、求められているということだ。

こういう本が売れるのにも理由がある。

安心材料(答え)ばかりを求めて行動が億劫になりがちな日本人にとっては

考える(考えるというより不安になる)よりも行動しろ!というふうに

発破をかけてくれる存在(しかもその存在が社会的に成功している人だと

なおさらに真実味を帯びたような気がしてくる)を

欲するのは無理もない。

 

インターネットはそれを助長する。

調べればすぐに出てくる。

答えを丸呑みにしがちな人は

「マスコミは真実を言わない、真実はこれだ」という情報に

まんまと騙される人が出てくる。

「私は真実を知ってる。みんなはまだ知らない」という

優位性もくすぐられて、自分が誇らしい存在に思えてくる。

マスコミを信じないのにネットの情報を真実だと思う根拠はなんですか?

という質問に納得のいく答えを返してくれる人はいるだろうか。

 

考えるより行動が大事なことも多い。

しかし先ほどの売れる本の著者のような

行動をけしかける人が考えてないかと言ったら

そんなことはない。

何が今求められているかを熟知しているからこそ

売れる本が書ける。

それが人にとって本当に良いものかどうかではなく

売れるからそういう本は出される。

 

そういう本を鵜呑みにしてしまうと、

人としての本質や味の薄い人間の量産につながると思う。

社会とは、人間とは、そんなに簡単にできているものではない。

考えるという行為は面倒だ。

しかも考えたことが成功に導かれて良い思いができるなんて保証もない。

だからなるべく楽をしたいのもわかる。

 

面倒を楽しめるためにはどうしたら良いだろうか。

生まれてきた人生、普通に考えれば楽しめたほうが良い。

楽をすることは、一見気分は悪くないが、楽しいとは限らない。

むしろ人生のつまらなさに繋がりかねない。

自分の可能性を持て余しているのと同じだからだ。

 

そして日本の教育を責めるというよりも、

そういう教育の中で育ってきたのだから

自分の中でつい答えを求めたくなりがちな部分があっても

まぁしょうがないよね、と自分を受け入れる要素として使うのが良いと思う。

そのうえで、そこから抜け出したいなと思ったら

意識して修正していけばいいと思う。

 

なので、考えない人が悪いのではない。

考えない仕組みの中に子供の頃にいた。

考え方や自分なりの答えの出し方を教わってこなかったし

重要視されてこなかった。

なので無理もない。

まずはそのことに気づくことが大切だなと思った。

幸せの味

寝る前には幸せな事を考えると良い

ということを結構前に知って

私は食べるのが好きなので

「あー明日は何食べようかなあ♪」

なんてことを考えることがおおいのだけど

最近気がつくとパン屋さんにいることを

想像してる日が増えてきた。

子供の頃からずっとフランスパンが好きで

好きな食べ物トップ5に入るくらい好き。

その次にクロワッサンが好き。

その次がカレーパンか食パンか。

大人になってからコロッケパンも好きになった。

趣味としてパン屋さん巡りもいいかもな

なんてことを今日思い

スマホでフランスパンを検索して

やっぱり形と良い色味といい

私の中でパーフェクトなんだよなあと

惚れ惚れした。

パンとカフェオレの組み合わせは最高。

今夜もフランスパンを妄想して眠りにつこう。

柔らかめのバケットを使って

中に葉っぱと燻製サーモンとチーズを入れて

サンドイッチにして食べる。

ロゼのスパークリングワインと。

ぎゃー!食べたくて眠れなくなるー!

人間関係での問題事

昨日は身近な所でがっくしくる事があった。

人間関係で起こる問題は難しい。

その問題を少しでも健全な方に向かおうと尽力しても

その通りに解決するのは難しいということを思い知る。

 

そもそも人をコントロールすることはできないし

しようとすること自体が健全なことではない。

だから境界線を自分の中で理解しておくことは大切なことだ。

 

家族とはいえ、恋人とはいえ、親友とはいえ、後輩とはいえ

つまり自分と相手がどんな立場であったとしても

相手をコントロールしようとすることは健全ではない。

「良かれと思って」だとしても。

しかし明らかに相手が破滅の道へ進んでいるのだとしたら。。

 

その場合は自分で出来る行動の限りを尽くすことは大切だと

私は思っている。

けれどそれが思う通りにいくかはわからないし

いかないことの方が多いだろうと自分に対して思っておく。

そして問題をかたくなに握りしめようとしない。

特に他者の問題であった場合は、自分に出来ることはしたとしても

これはあくまでも他者の問題であるという認識を忘れてはいけない。

そうしないと自分の人生までも巻き込まれて崩れていってしまう。

 

優しい人ほど相手の問題を解決したいと思いがちだが

相手の課題を克服して面倒をみてしまおうとするほど

過干渉になってしまい依存関係になる。

相手の課題は、相手がこの人生で克服する必要があるから

与えられたことなのだ。

それを誰かが手を突っ込んでかき回してしまうのは

あまりよくないことのように私には感じる。

 

自分にできるサポートはしたとしても

どうにかできる範疇を超えた場合は手放す。

これはドライなことではない。

自分にできることと、できないことをはっきり認識する。

できることをし尽くしたなら、そのあとは執着しない。

人間関係において執着ほど人を濁らすものはない。

執着の渦に身を投げてはいけない。

相手の問題を自分の問題のように扱ってしまわないように

何度も何度も振り返って冷静になる必要がある。

 

昨日はその事をよくよく自分自身に言い聞かせた。

夜明けの教え

明け方目が覚めて

頭に浮かんだことをメモしていたら

自分が気になっていることと

心を惹かれるものと

やっていきたいこと

その色んな点と点が繋がった。

やっとスタートラインに立てたような感覚。

しかしこれをどう形にまとめて実践するか。

それは少し眠ってから改めて考えよう。

楽しくなりそうだ!

作品

売れてるものが良いものなのかどうなのか

資本主義においては売れてるものが勝利者ではある。

勝利ではあるけれどそれが良いのかどうか

それは個人の好みかどうかではなくて

質としてどうなのかというところで。

 

妬みではなく「人としてああなるくらいなら金持ちにはならなくてよい」と

思うようなこともあったりする。

成果や結果や勲章よりも大切な部分というのだろうか。

これはおざなりにしてはいけない、という部分が何かしら誰にでもあったりする。

 

大量の資本が投資されていたとしても

作り手がお役所仕事で今までされてきたことをし続けているのでは

クオリティは現状維持ではなく徐々に劣化していくと思っている。

それが大量に広告されているから手にとる人々。

そこに疑いはあるか、自分なりの美学はあるのか。

そこが麻痺していないか、思考停止していないか。

消費者としても、作り手としても。

自分の意思のようでいて、選ばされているのではないか。

私自身によくよく問いかける。

 

シンガーソングライターあるあるとして

一筆書きのように一度書いたものを修正したがらない傾向にある。

それはこだわりというより怠慢だろうなと私は思っている。

鮮度の高いものの方が良い場合もある いじる必要がない場合もある

けれどこの作品は本当にそうだろうか。

自分の怠慢ではないだろうか。耐えうるクオリティだろうか。

引き返したり修正することは気持ち良いものではない。

けれどそこで楽をしてしまっていいのか。いいわけがない。

そういう心持ちはわかる人にはわかってしまうものだ。

 

しょへすんと話し合っている姿を見た人は

「しょへすんはよく考えるよね」と少し皮肉っぽくいう人もいた。

私も考えすぎるばかりで早く行動にでたい!と思うこともあった。

でも今となってみればわかる。

それをいう人の方が考えなさすぎだということを。

シギが進まないのはしょへすんが邪魔をしているのではない。

私が甘いままで進めようとしていたからだ。

進めることも形にすることもやろうとすればできるにはできる。

考えるよりやれ!という思考も飲み込みやすいので人々にはうける。

けれどそれで本当に良いのだろうか。

「〜っぽい」というような表面を撫でたものしか作れないと思う。

物事が人々に受け入れられるのにはそれ相応の理由がある。

それがまぐれで当たる人もいるけれど

ほとんどの人はそんなまぐれにはならないし長続きしない。

 

本当に良い作品というのは試行錯誤の結果につくられる。

現代に合っているのか、長い年月を超えられるほど本質的か

それが本当に自分のすべきものだろうか

こういう事を突き詰めて考えた末にものをつくる人がどれくらいいるだろう。

私は本当に甘かったなと思う。

自分の視点で、自分よがりで考えていたなと思う。

客観性を持っていたつもりになっていて人の事を気にしていたというだけのことで

分析や研究と呼べるほどの試行錯誤はできていなかった。

 

社会の中で生きていなかったと思う。

自分の世界の中で生きてきたなと感じる。

自分の中から生まれる作品であることは間違いないのだけど

受け取る人は私の世界の中に生きているのではなく

社会の中で生きている。

誰かの作品という世界に没入できる面白さというのは

社会とコミットしているからこそ通じるものだと感じた。

まだまだだなーと自分に思いつつも

それを素直に理解できただけでもだいぶ前進してきてるのを感じる。

 

今までは「いやいやでも」みたいな反抗的な気持ちがわいていた。

自分のことを正当化したくなったり

弁解したくなった。

でも今の私はそこにはいない。それだけは確かにわかる。

変わろうとしている。

それは願望とか意固地さからではなく

本来の自分がやるべきことに向かって目を開いている感覚。

それを実行して形にしていくんだという感覚。

 

これは0を1にする作業で

1にできれば進むのはわりかし早い。

けれどこの0を1にするというのが一番時間がかかり

一番重要な部分だ。

思い出の場所そごう川口

FM川口さんの映像から。

ああああああ!!!!!!!

涙腺爆発した。

そごうがなくなっちゃうなんて。。。

最終日はものすごい人だったんだな。。

川口の顔みたいな存在だったから。

小学生の頃から当たり前に行ってたそごう。。

スモールワールドが流れていた時計台。

屋上ではビアガーデンを楽しんだな。

川の流れるレストランは子供の頃好きだった。

引っ越してからも川口に寄るたびに

よく行っていた。。

引っ越す前にそごうで買った急須が思い出の品になった。

これを大事にしよう。

ありがとうそごう川口。

思い出したともいえる。

いつもと少し違う角度から歌詞を書いている。

メロディがずっと歌いたかったものが作れたので

念入りに歌詞を書いている。

未来に行きたい場所ができて

そこに歩いていきたいなという想いが芽生えた。

自分の言いたいことや自我から一歩でてみると

見たことない世界が広がっている感覚になった。

でもこれはみんなは当たり前に目にしている光景で

だけど私はずっとそれをつまらないと思っていた。

でもその深みが今ならわかる。

胸にぐっときて恋焦がれるような想いを持つと

ぐいぐい先に進んでいけるんだな自分という人間は。