ひとつまえのブログで書いたけれど
私はずっと自分のエネルギーを抑えて過ごしている節がある。
子供の頃からずっとそういう抑圧感がある。
常に加減している。
だからずっとつまらないなあと思っていた。
人と会うことは大好きだけど
人とする話がつまらない。
(人そのものがつまらないとは思っていない。)
多かれ少なかれ社会性をもっていれば
加減して話すのが普通だと思うのだけど
それが退屈に感じる。
本質的な話やその人のコアな部分の話は楽しい。
本当を隠しているような感覚がするものに
つまらなさを感じる。
だから街中で怒鳴っている人や喧嘩している人をみると
面白いなあと感じる。
それは笑いの面白さというよりも
うごめきが表れている現場をみることの面白さ。
滑稽さを恥ずかしげもなく表に出すことの面白さ。
エネルギーが滞ると喧嘩したくなる。
それでも私の中にある常識が押さえ込むので
失礼なことをしてくる人=喧嘩を売ってると認定して
売ってるなら買ってやろうと理由がつくので怒鳴ったりしてきた。
私も私で滑稽なことはたまにしている。
そういうくだらなさを自分の中に感じることが嫌いじゃない。
私は正しさのために生きたいわけじゃない。
生きていることを生きている間は感じたい。
そのためには人間を人間たらしめているエネルギーが必要だ。
それは自分が放つものと、人から感じるものと
絡ませあうものが必要だ。
ぶっ放してえ!!!!!!!!!
みたいな気持ちがずっとある。
それをしょへに話したら松田優作の学園ドラマの予告を見せられて
「これじゃない!?」といわれてウケた。
だから大きな声を出して歌うことは
私の中でエネルギーが正常に合法に放たれる場所。
だけど20年以上歌をかいて歌っていると
ただでかい声を出すだけじゃ物足りなくなってくる
(今までもただでかい声出してただけじゃないけど。笑)
もっと自分の中にある欲求や美学と
社会的な人間的なものとをないまぜにさせた作品
それでいてそれがポップスを超えないもの(つまり民衆が聴けるもの)
聴けるものであるが作品に忠実になることを恐れないもの
つまり新しさが備わっているもの。
今までの自分のやり方をステップアップさせたい。
けれどそれは想像以上に理性的な部分が必要だ。
ぶっ放してえ喧嘩してえみたいな
自分の中にある社会不適合な生きづらさは
表現として昇華されるために
存在しているものなのかもしれない。
まだそれが私は甘いのだろうなと感じる。
表現に対して、心を開いていないのかもしれない。
あとは自分がやろうとしていることが
ぶっ放してえなどの本能以上に理性を必要とする作業だと
超えなければならない壁が存在する。
それはもうどうしようもない。
死なないなら生き続けるしかないように
表現するために向き合い行動し続けるしかない。
簡単に「ぶっぱなせた!」じゃ満足できないのに
ぶっ放したい自分との葛藤。
好きなことをすることは楽ではない。
本気で何かをやろうとすれば。
そこに落ち着くのだ。
つまり、やるしかないのだ。生きている以上は。