言葉の取り扱い

久しぶりに弱者のMVを見て懐かしんだ。

コメント欄にいくつかの国の人から嬉しい言葉が。

もちろん日本の方も。

彼女たち、彼らは思ったことを書いただけで

そういうつもりではないかもしれないけれど

時間を割いて私にポジティブな言葉を届けてくれることに

実は私が一番救われている。

わざわざ言葉にして届けてくれることが嬉しい。

私も、好きだとか、救われたとか、良かったとか

そういうことは言葉にしていきたい。

 

言葉の中には心がある。それを見る人にも心がある。

だから何も言葉を選べなくなる時がある。

私が家族や友達がいることの喜びを語るとき

それを見た誰かは家族を亡くしたばかりかもしれない

誰かは友達がいないかもしれない。

 

救われたと言ってくれる人と同じ数くらい

もしかしたら誰かを傷つけているかもしれない。

そんなことを考えることがある。

そう考えて、言葉を重ねれば重ねるほど言い訳がましくなって長文になる。

書いては消して、書いては変えてを重ねる時もある。

歌詞を作るとき、ブログを書くとき、ツイートするとき。

完全にはなれないし、なろうとすることがそもそも傲慢なのかもしれない。

けれどこの先もなるべく人の足を踏みつけてしまうことがないように

踏んでしまっていたら素直に謝れるような心は忘れずに持っていたい。

 

今も新しい曲の歌詞を書いていて上に書いていたようなことを思う時もある。

いっそ言葉などなければ・・・そんなことは思わない。

言葉に傷つき怒りもしたが、言葉に笑い救われもしたから。

言葉を書くことが昔から好きだ。大切にしていきたい。