思っていることが口にでる

どんなに綺麗な言葉を使っていても

どんなに綺麗な笑顔を作っていても

日常のささいな時に思っていることは出てしまうもの

 

自分にとって価値のある人間には良いことを言っていても

自分にとって価値のないと思う人間にしている言動は

まわりまわって価値のあると思っている人間の耳にも届くもの

そうするとその人間も去っていくし

価値のないと思われ粗末な扱いをされていた人間も去っていく

そうすると周りに人が少しずついなくなる

それを運が悪いなど思ってはいけない

自分の中に人を都合良く扱おうと思う気持ちがないか

自分の中に人を差別する気持ちを持っていないか

人によって態度や使う言葉を変える人は信用できない

価値のない人はいない 人は人だ

青の世界

こちらの一番右側の絵を出品しています。

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答えはあるのかないのか

過去の自分のブログを読んでいると

なんとも気恥ずかしい気持ちになることがある。

それは過去から今の間に別の出来事があって

過去のその時の自分では感じられなかったことや学びがあったから。

かといって過去の自分を抹殺したいとは思わず

ブログの連なりというのは自分の生きた時間の足跡みたいなもので

それを気恥ずかしくも生暖かい目で見つめる。

時に今の自分よりも鋭い言葉に出会ったりもする。

過去の自分から教えてもらうこともある。

未来の自分もきっとこれを見ていることだろう。

未来の自分に生暖かい目で見つめられるのなら

きっと今よりも歩いて行ったという証拠なのだろう。

 

曲を作っていると自分が今到達した答えは通過点にすぎないことがよくわかる。

人間は簡単に答えを欲しがったり自分の居場所を見つけ出そうとする。

人間によって度合いも変わるだろうが私には答えが欲しい気持ちが強かった。

だから葛藤している歌詞が多かった。

それはここじゃないどこかに自分のいるべき場所があって

この曲じゃない別の曲に自分の歌いたい曲があると

とにかく今じゃないということだけは確かな情報だった。

 

長年そうやって葛藤していて

その答えに到達したことがあるかと言われればない。

ないということが答えだとわかった。

いや、ないというとちょっと違くて

ないのじゃなくて、自分で決めることなのだ、と言ったほうがまだ近い。

それは導かれるものでもなく人に手渡されるものでもなく

自分で決めることであり自分で責任を持つことなのだ。

そしてそれを今の答えとして歩いていく一方で

厳密にいうと答えなんてものやはりないといったほうが確かではある。

今はこれが答えだと決めた、もしくはそう思いたいだけ。

こういう言い方をすると自分に厳しくみえるかもしれないけど

基本的には「大したことのない自分が

大したことないなりにやることをやり続けている」くらいの姿勢でいる。

 

「大したことはないが捨てたもんでもない」

これくらいの距離感で自分と付き合うことができれば調和がとれる。

真ん中で常にいることは難しいけれど

深刻になりそうなときに意識すると良い。

 

人間全員が大したことはないが捨てたもんでもない。

称賛しすぎることなく、粗末にすることもなく、フラットな塩梅で。

人間全員に未熟な部分があり、美しい部分がある。

その人間のひとりとして、捨てたもんでもないと思えることを

ひとつひとつ地道にやっていく。