私は「あの人が羨ましい」と思ったことがほぼない。ライバル視も。
思い出せないだけであるかもしれないのでほぼといった。
「いいなー!」と思うことはある。
例えば美味しいお肉食べてるとか、ビアガーデンいったとか。
でもそれは軽やかないいなというか。
「あなたが羨ましい、悔しい」「ライバル」と言われることがある。
私はそう言われることが少し苦手。
どことなくじっとりした重さが私の肩に乗っかるのを感じる。
そしてそれと同時に、少し寂しい気持ちになる。
それは、「悔しい」「ライバル」と言ってる人の心の中にいるその人。
私はひとりの人の中にいろんな自分がいると思っている。
それは「頼もしい自分」「子供のようにかわいい自分」「臆病な自分」など。
そして「なんのてらいもない素直な自分」と「色々気にした自分」もいる。
その時の感情や体力の余裕によってどの自分が表面化するか変わる。
私が寂しい気持ちになるのは、
「悔しい」「ライバル」と言ってるその人の心の中にいる
「子供のようにかわいく、素直な自分」が、悲しんでいるような気がするから。
その人が例えば私をみて「悔しい」と思うその時
素直な子供の自分はその人から置き去りにされている。見てもらえていない。
そしてその子は「僕じゃやっぱりだめなんだな」と思って肩を落とすだろう。
だから私は、悔しいなど言われた時には
「おまえ、おまえを舐めんなよ?」と思うし
「俺のことはどうだっていいんだよおお!!!
おまえ自分のこともっとみてやってくれよおお!」
口惜しいなんていって人を見てる時間を捨てて
もっと自分とたっぷり時間とって愛情かけて
どうやったら自分が納得できるのか自分と作戦会議して
生きていく方が心の中の子供の自分が喜ぶんじゃまいか、と。
あと私がどうして人をライバル視しないかというと
同じ環境で同じ設定で生まれて同じレールにいるわけでもない
別々の肉体と経験と感性を持っている他者に対して
同じ扱いで見ることができない。私と私以外は別々だから。
例えば音楽で成功していて売れていたり
私がやりたかったことを先にやっていたとしても
「うおおすげえ」という気持ちがわくかわかないか。
なんで重たい気持ちにならないかというと
別々の人間なのはさることながら
他人の全てを見ることは不可能だから。
人は人の良いところだけを見て羨ましがったり
悪いところだけをみてけしからんと言ったりするけど
その一面以外に別の面がたくさんあったり
過去にどんな大変なことがあったか、どんな気持ちをもって生きてきたか
私は見ることができないので想像するしかできない。
だから、一面や今の状態のその人をとってきて
「羨ましい」とか「悔しい」と言う気にはなれない。
彼女、彼がどんな人生を歩んできたか
どんなにイメージしてもそれはその人の人生ではない。
でも私は生きてる中で人には笑顔を見せる裏で自分に悔しくて泣いたり
寝込んだり悩んだりしたことが沢山あったので
きっと人も同じように辛いことや悲しいことや頑張ってることが
ひとりの時に訪れたりしているんだろう、と想像する。
そうじゃなかったら、、そりゃそれでいいじゃねえか!オールOK。
生きてると色々あるし気持ちや体が余裕ないと
落ち込むモードになるけど、それはそういうモードになりやすい時だからで。
そういう時は他者や何か他所の行いを目にするよりも
たっぷり休んだり自分の好きなやりたいこと書いてみたり
ご褒美dayとしてちょっと贅沢なものを食べてみたり
とにかく自分の扱いを自分で上手になっていくことが
人生を深刻にしすぎないためには大切なのかなと思ったりしている。
だから悔しいとか羨ましいとか!!
それで自分がマッハやる気になって最高に幸せになるならいいけども!
それで自分を置き去りにして人のことばっか目をやってるとぉ!!
自分が泣いちゃうよおおお(:;)だれ
あなたの人生はああ!!!!あなたが幸せになんなきゃあああ!!
だめなんだよおおおおお!!!!
だからあああ!!!幸せになってくれよおおおおお!!!!!!
明日あなたに茶柱が立ってることおおお!!古
そんなささやかな幸せが一個訪れるようにってえええ!!
こっから祈ってるからなああああ!!!!!
こんなテンションで書いてますが
何かが起きたかというとなんにも起きていなくて
誰とも話さず今日はひとりでのんびりしていただけです。
今日の夕飯はそうめんよっ。