そこまで親しくはないが知っている人がいるのだけれど(遠くの親戚のような)
その人のことを、私は本当にどうしようもない人だなと感じている。
人間は大抵どうしようもないものだと思っているけれど
わざわざ私が言葉で「どうしようもない人間だ」と形づけるということは
私の中では相当どうしようもない人間ということ。
今までそういう人の近くにいると
アンテナが「そばにいてはいけない!」と教えてくれるので
数万キロくらい精神的物理的に距離を離すのだけど
その人は私がその人から離れていたとしても
影響がないとは言い切れない距離関係にあるので
どうしても間接的に知らざるを得ない。
まぁ人間、縁を切ると言っても生きてる限りは同じ地上のどこかにいるので
私は間接的に影響があることに関してはヒステリックにはならない。
私がわざわざ口にするほどどうしようもない人間というのは
どういうものなのかを説明すると。
・すべて自分の利益のために動く。
・邪魔だと感じる人間は深くその人のことを知らなくても思い込みで恨み、憎む。
・人を物理的に傷つける行為をする。
・人を傷つけて自分が被害者だと思い込む。
・他者の気持ちを配慮することが全くといっていいほどできない。
簡単に説明すると上記のような人間。
私がその人を見ていて思うことは
人間は学ぶ環境に恵まれないとこうも愚かな生き物になるのか、ということ。
犯罪を犯す人の中にも同じようなことが多いのではと思う。
倫理や道徳を教わる機会が極端に少なかった。
愚かな行為を、それは愚かだと教えてくれる人がいない。
愛情の足りない環境で常に精神的な飢えや不満を抱えている。
そういう環境で育った人が犯罪や人とのトラブルを起こす。
周りは避ける。危ないやつとわざわざ付き合う義理などないし
そもそも身の危険を感じて恐ろしくなるため。
そうするとどんどん孤独と被害者的な思い込みは加速していく。
もしかしたら誰かに教えてもらった場面もあったかもしれない。
けれどそれを「自分は否定されている」と受け取ったり
くだらないとゴミ箱に捨ててきたのかもしれない。
すべて想像なので本当のことはわからない。
けれど想像することをやめてはいけないと自分に思う。
「なぜこの人はこんなにもどうしようもない人間になったのか」
そうなる理由が必ずある、と私は思っている。
親が酷かったのかもしれない、親も劣悪な環境で生きてきたのかもしれない。
教育や環境に関係なく本当にどうしようもない血なのかもしれない。
それはわからない。
けれどわからないものを想像していると
罪を憎んで人を憎まずということが体現できそうな気がしてくる。
私がそういう人がいるということを知り
人としてどうしようもない行いをしているのを聞いて
宗教で倫理的な教えをする物語が多い理由がわかった。
昔は今よりも倫理観が不安定で
人を人とも思わないような人体実験や拷問が当たり前にあった。
(今もないわけではないが)
教育も行き届かない場所において人が人と共存していけるためには
倫理観や道徳を育まなければいけない。
そういうわけで宗教の物語で人に倫理観を広めていたのかなーなどと想像した。
(その宗教によってまた人が人を憎んだりもしてる事実もあるのだけど)
勝つか負けるかで世界を見ていると
そういう世界を生きることになる。
人間は自分が考えている人生を辿ることになる。
恵まれない環境で愛を知らずに育ったことは被害なのだが
いつまでもその被害の中を生きていては
自分を幸せにできない。
他者から奪う生き方をするのではなくて
他者を睨みながら自分を守るのではなくて
自分の脳内で作り上げた世界に気づくこと。
(他人は敵だとか、みんな自分を憎んでいる、とか。
そういう世界を作り上げて思い込んでいるということ)
そのことに気づくのは本当に困難なことだ。
物語を生きているとこういう弊害が出てくる。
自分を哀れな存在にしてはいけない。
それは自分の力をみくびることになる。
誰かを傷つける力として使わずに
本当の意味で自分を幸せにするために使わなければ。
本当じゃない意味の幸せというのは
誰かから奪った利益を自分のものにして幸せになるという行為だ。
それは自分を幸せにしているようでいて失っている行為だ。
何を失っているかというと人からの信頼だ。
金という目に見えるものよりも
目に見えないものを失うほうを恐れる方がいい。
しかしそんなことを私が思えるのは
私を育ててくれた両親や先生や友人や文化に恵まれていたからなのだろう。
それに恵まれないものはどう気づけばいい。
どうしたらそこに気付いて報われるのだ。
人を傷つけずに自分を幸せにできるのだ。
わからない。わからないから想像するんだ。
わからないから考えるんだ。