違和にヒントあり

ここ数日感じていたある違和感やモヤモヤ。

春もそうだったので

これはむしろそれをネタにして内観やな!と思い

それらの特徴と自分の心理を書き出してみるとすごくスッキリしたし色々わかった。

特に、あれはないわぁと思ったことの内容を挙げてよくよく客観的に見てみると

実はそれは私がしてたことだったりして(特に昔は常習犯)

今まで私が無意識にしてたことによって

その時の相手は今の私みたいな気持ちになってたのかな

と想像すると申し訳なくなったりした。

違和は学びだな間違いなく。

違和を通して普段はなかなか気づかない自分の側面を眺められる。

今まではやだなぁとかむかつくなと思うことから

離れるとか避けることはよくしてきたけど

そんな簡単な話でもない良さもあるなと思った。

自分も未熟な人間だなぁと思い

気持ちを少しゆるませてフラットに見つめていこう。

俺を見ろ

作曲をするのに別のあがるモードを入れようと思って

MAD MAX 怒りのデスロードを見た。

人気があるのは知っていたけど

車が出てるしロックだろう!と思ってみたら

想像以上に最高すぎた。。あと3回は見たい。

映画館で見たかったぞおおおお!!!

 

一箇所私のど直球な場面があって

わあああんと思った。

わああんと思いながらお風呂に入ったら

昨日しょへすんが言ってた言葉も相まって

一曲できた。

今までの弾き語りのやりかたじゃできないであろう曲だったので

おしゃーと思った。

今日は歌詞は書けなかったけど

原曲は2曲できたので良しとしよ。

大切なひとを大切に

失礼なことをされたなあ

数日たってだんだんダメージに

悲しいとかじゃなくて呆れたみたいな

でも呆れたは奥に悲しいだな。

舐めてるなあと思う人

私にじゃなくて周りの人やものに対しても

誠実じゃないというか

言葉も肉体も

境界線を勝手に侵入するのは失礼なことと私は思ってて

誰も誰のことも軽んじてはいけない

礼儀は相手を尊重するうえで大切な行い

大切なものを勝手な気持ちで壊して失わないように

そう教えてもらったのかな。

人に代わりはいないから

大切だと思う人は大切にしないとだね。

物事を正しく見ようとする姿勢

今日は日付変わったけれども

一曲フルコーラス分の歌詞をかいた。

数日戦っていた曲はこの心持ちのままでは

できそうにないと感じていたので

作曲はそれくらいにしてラジオなど録音した。

夜にしょへすんと数日ぶりに話したが

それがとてもよかった。

世界を正しく見ようとすること

これはやはりとても大切な姿勢だと感じた。

悲観したり深刻になりすぎるところが人にはある。

物事をドラマチックに見過ぎない。

ただでさえ自分の色眼鏡は外せないからこそ

なるべく冷静に正しく物事を見ようとすることが大切だなあと。

それは作曲も当てはまるところがあって。

出来ないこととか大変さにスポットを当てて

過酷な物語の主人公になるのは結構間抜けなことだなあと。

数年前ならまだ良かったけど

今それをやるのは寒いなと感じる。

自分が数日ひねもす状態で苦しんだので

なおさらそれが身に染みた。

明日は作曲と作詞どっちもやろ。

これもスパイスな女。

スパイス入れを作った。

まだ半分余っているけれど

徐々に欲しいものがあったら増やしていくつもり。

煮沸消毒して乾燥させてせっせこ入れ物交換。

地味であるが良いひととき。

意見と行動を。

ここ最近、ものをネガティブな方向に解釈する人といると

違和感をもつようになってきた。

いつも話している人がネガティブなことを滅多に言わない人なだけに

他所でそういう会話と出会うと浮き彫りにされる感覚がある。

 

これは物事を否定してはいけないというわけじゃなくて

私が違和感を持つような類のものっていうのは

 

それを言ってどうなるの?と突っ込みたくなるようなこととか

それだからあなたはどうしていくの?と思うようなこととか

つまり「嫌に思っただけでそれ以上自分が何かをするわけではない」というもので

暇つぶしにしても中身のないものに感じるようになってきたのである。

 

少しまえに「自分の意見」と「リアクション」というのの違いがあることを知った。

リアクションというのは名前のまんま

目の前のものに対してリアクションしているだけ。

「よくない」とか「こわい」とか「わかる」とか。

自分の意見というのもまんまで。意見、それは自分の頭の中で考えられたこと。

自分の経験を踏まえてこうするのはどうかと思った、とか。

リアクションよりももっと奥入って頭を使っている。

 

私が違和感を持ち始めているのはリアクションをしているだけのもの。

何が嫌だとか、これはよくないとか。

その先がなくて、リアクションをして終わるので動向に続きがない。

ぼやいているだけ、というようなもの。

 

養老先生が言っていた言葉で

「運動というのは入り口(インプット)があって

その先に出口(アウトプット)があってその輪で運動は成り立つ」

というものがあって。どちらか片方だけでは人の活動(運動)とはいえないと。

ここのアウトプットっていうのはリアクションのことではないと思う。

インプットを噛み砕いた自分の意見だったり

インプットを経て実際にアクションしたことだったりではないかと私は考える。

 

あえてこのブログで「ネガティブ」と名指ししているのは

ネガティブな言葉や想いというものの影響力は強いから。

ネガティブなものってすごく中毒性がある。そこに浸りたくなる。

だからマスコミや広告は脅迫まがいなことをいったり

ネガティブな情報を伝えるものが多い。

YouTubeも「そんな無駄毛があったらモテないよ?」とかの広告をよく見かける。

 

ネガティブは人を惹きつける力がある。

そういう力があると意識していないと簡単にそこに流されてしまう。

ネガティブなレンズをつけると人はだんだん意地悪になってくるので

(否定的に人を見るようになってくる)気をつけていたいことだと思っている。

 

ポジティブなリアクションというのはただのアホというか(褒め言葉)

「これたのしかったー!」とか、「へー!すごいねー!」とかってのは

先がないのでアホなのだけど、人に与えるマイナスの影響力は少ない。

同じアホなのだとしたらポジティブなアホを選びつつ

ネガティブなことに関しては自分の意見でもって話ができたり

何かアクションを自分で起こせたり

そんなのが健全でバランスが良いかなと考えたりしている。

 

もう少し続くけど

私の大学の本にこう書いてあった。

「若い魚は川の流れに逆らうが、死んだ魚は川の流れに逆らわず流される。

若い人でも死んだ魚はいるし、年老いた人でも若い魚はいる」

というような内容だった。

思うにネガティブに侵されてリアクションをしているだけの場合は

この死んだ魚の部類に入ってしまうのではないか。

大学での教えをわりと大切にしている私にとっては気をつけていたいこと。

 

私がこうなってきている影響は

ネガティブなリアクションをしない人といることと

ほかには

現実に向かって日々地味に歩いていること(これがしんどいことではある)

いやでも現実と向き合わざるを得ないので

リアクションだけのやりとりに中身がないように感じられてくる。

リアクションというのは傍観者だからだ。

ワイドショーをみて「いやねえ」と言ってるのと同じで。

でも人生は「いやねえ」と何かに言ってるだけではちょっと寂しい。

オードリータンさんの言った、この世界に観客席などないという言葉は

グッときた。傍観ではいけない、自分が入っていかなければ。

お前も俺も当事者だ、そう思える日常にしていきたい。

 

そのためにも行動していくしかないのである。

そんなに大そう立派なことじゃないのだが

ひとりの人間として与えられた命を使い切っていくためには

あまりぼやぼやしているだけでは命に申し訳がないと私は感じるのである。

精度は求めずにつたなくてもいいので

自分の体と頭を使って体験を自分にさせてやりたいなと

最近は考えている。

 

録音しますか!!!!!

いっそ言葉など無くせたならどれだけの人が傷つかずにすむのだろう

タイトルは2021年5月にお届けする手紙の一節。

楽曲の歌詞と詩は反転した意味合いを書いた。

「言葉などない世界ならあの人は傷付かずにすんだ」

というイメージが浮かぶ時に

「言葉を話せないことで辛い思いをする」

という反対のイメージが浮かんだ。

 

「もっと金があったら良かった」

と思う時には

「金があったからこそ生まれた悲劇」

も同時に思ってみる。

 

「ジャータカ」というお経に書かれているエピソードがある。

ある4人兄弟がキンスカの木を見にいく話だ。

キンスカの木を知らない4人はそれぞれの季節にキンスカの木を見にいくこととなる。

ある者は緑の生い茂ったキンスカの木、ある者は枯れたキンスカの木。

そして4人が集まってキンスカの木についての感想を言い合うのだけれど

どれも感想が噛み合わず、自分の見たものが正しいんだ

お前が言ってるのは間違いだと言い争いになる。

結局、皆が見たキンスカの木は全てが本当のキンスカの姿で

状況や角度によって見えるものは変わる

自分の見たものだけを真実だと思い込むのは愚か者である、という教えだった。

 

あいつが羨ましいとかあいつはひどいやつだと思うことも

それは自分の目線から見た感想であって

そうではない見方もあるかもしれない、と自問することができる。

これは希望のある話に私には感じた。

 

自分には見えない角度がある、自分には知らない捉え方がある。

それはどんなに悲観的な状況にあっても

これは悲しいどうしようもないと自分が捉えているだけで

主観の思い込みから抜け出せれば

光の出口が見つかる場合があるという

可能性という希望のある話に思った。

 

そういう物事の二面性について

今回の手紙では作品にしたためた。

そして物語にのめり込みすぎないように

そんなちょっとした遊びもいれてみた。

気づくだろうか、気づいてもらえたら嬉しい。

 

お届けをお楽しみにしていてください!

缶詰根詰

昨日今日は缶詰で作曲。全然曲がでなくて苦しんでいる!

こういうときに往生際が悪くしがみついてもいいことない

とわかっていながらスッキリしなくて

いつまでもネチネチやってしまう。

昨日は体調もよかったので

夜に誕生日で頂いていたスパークリングワインをあけた。

カタログギフトから私はソーセージを頼んで

なぜかというとワインのおつまみにしたかったからである。

1日外出もせずに作曲していたので

すごく楽しかった。。。堪能した。。。

そしてこれは人からの善意で食べ飲みできて

この楽しい時間を過ごせているのだと思うと

とてもありがたく活力がわいた。。。

よっしゃ!気を取り直してやるぞ!

となった今日、まだ出てきていないのである。くそー!

そんなうまくいかないってか。

それは自分の中で新しいことをやろうとしてるからなのである。

そんなうまくいったら面白くないってか。

確かにそうだがもういい加減できてほしいよう〜!

快楽は苦しみの先にある

1日中作曲に集中して

ここに行きたいと思えば思うほど

そこには辿り着けなかったりする。

神のいたずらか?とロマンチックに考えることはできるが

そうではなく自分の引き出しの少なさによるため。

ロマンスに身を委ねて気持ち良いところと

そこに身を委ねてはいけないところが

私の中でははっきりしている。

今日のような作曲はロマンスとは縁を切る必要がある。

自分の慣れきった戦場を断ち切って

別の場所へ赴くようなことは

ロマンスではない。

自分の怠惰の外へ足を向けるだけのこと。

歌も何十年と作っていれば何も考えずかけるところもある。

けれどそこでは満足がいかない。

そこではない場所へいきたい、そこを実感したいと願い

実行していくこと。

傲慢かもしれないけれどそう願うことが

苦痛と共にすることとわかっていてもなお

それと寝たいと思うことは

ものづくりをするもののどうしようもなさだろう。

苦しいけれどそこから離れられない。

なぜなら息苦しさの先に呼吸ができることが

ただの呼吸よりも気持ちが良いことを

知ってしまっているという

結局はロマンスに帰結するという

私はどうしようもない人間の一種だからである。

それはスパイシーな女

最近スパイスにはまっている。のか?

最初は「これ、私ハマりそうなのか?」なんてことを思いつつ

心の中では「これは気になっているな」と思う。

そういえば恋も「え?私、この気持ちって・・」みたいな物語などあるので

気持ちが変化するときって自覚と自覚ないが半分ずつ混合してるんだな。

というのをスパイスで感じるこの頃。

 

そんなわけで最近胸肉を毎日のごとく食べてるのだけど

昼間に食べるものを考えてなかった、でも小腹がすいた

冷蔵庫にあるのはただの胸肉。となって

適当にクミンとオールスパイスとチリペッパーを

よく考えずに振りかけて焼いてみると・・・

うんまああああああああああ!!となった。

今日はケイジャンチキンというものを食べる予定。

これ準備に2日かけたのだ。。

初日に胸肉をブライン液というもので柔らかくさせて

次の日に下味を1日つけて。からの今日!

 

そして今日はいつも作ってるピクルスにオレガノちゃんを投入。

今晩のおかず。