新しく絵を出品しました。

https://www.creema.jp/item/12108764/detail

最近描いた絵を1枚creemaさんにて出品しました!

販売ページは上記URLをクリック↑

 

今回の2枚個人的にすごく気に入っていて

出したくないくらいなのだけど、笑

でも循環させたいので出品。

この感じの絵また描こう。心が解放される。

保護中: 6月振り返りと7月のイメージを一緒に作りましょう!

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同じ時代を生きられる喜び。

昨日描いた絵。下側と右側。

明日にでもひとつ出品しようと思います。

 

今日はよくわからないことでメソメソすることがあった。

普段の何気ない言葉が

メソメソのフィルター越しにみるととても優しく感じた。

そのあとはフィルターを外す。

 

これといって辛いことはないのだけど

自分の中から生み出さないと何もならない以上は

わりに孤独な戦いだなと感じる。

それでもこの道を行きたいと思ったから進む。

ひとつだけ勘違いしてほしくないのは

精神論でがむしゃらにやってる訳ではない、ということ。

あくまで冷静に淡々と生活している。

 

すごい、かっこいいと思える人がいて

そういう人を見つめて私は進んでいく。

くじけてもいつも勝負はここからだと

すごいと思える存在がいるから私はまた立ち上がる。

休んで立ち上がって進んでの繰り返し。

自分が決めた道に集中して生きる人たち。

その毎日は思った以上に地味なもので

集中して積み重ねる行いを見習っている。

私も地道に一歩ずつやる。

ここは気合で乗り越えない。

ひとつひとつ体感で身につけていく。

 

調べ物をして頭を使って、言葉を書いて

合間に雑務と打ち合わせがあって。

今日も地味だが良い一日だった。

明日も言葉を書く。

音で表すもの、絵で表すもの。

ここ数週間ぱたりと絵を描いていなかったのだけど(スパイスにはまりすぎた)

最近音楽や自分の今後について腹が決まるところがあったので

どういう絵が生まれるのか自分でも楽しみだった。

結構ハードなものと向き合っていたので

絵もそれが反映されるかなと思って描き始めた。

けれど出来上がった絵はそれと真逆に思えるものだった。

 

少し前にしょへに言われたことがあって

「表現は自分の内面を映し出すものっていうイメージがあるけど

シギの絵は自分を癒すためのものに見えて

それが自分にはない発想だから面白い」というような言葉だった。

 

音楽で強く自分や世間の思うところを表現しているから

その反動で絵では深呼吸するような感覚なのかもと思った。

だからハードなものに向き合ったり

自分でこの道で行くぞ、と気持ちをいれると(決めるという気負いもあったりするから)

絵では真逆のそこから自分が救出される、解放される意味合いの

絵が表れるのだろう。

音と絵の両方で調和をとっているのだと思う。

 

新しく描いた絵は数日の間にあげられるかと思うので

しばしお待ちを。

こんな世界なら生まれたくなかった

ないも同然のような問題

そこに人が関わる以上は日の光を当てたい。

それがパンドラの箱だとしても。

そこに押し込められて苦しむ人がいる限りは。

 

社会に蔓延る問題に絶句するとともに

知ってしまった以上は保身に走ることはできない。

自分のすることが報われないことだとわかっていても

何をしても絶望が待つとわかっていても

それをせずにはいられない。心が動く限りは。

 

知らなければ無関係な立場でい続けられる。

防音で守られているが外の世界は阿鼻叫喚とするなら

それに心を鈍らせて生きることは

本当に生きていることだと言えるのだろうか。

 

思い込みのない曇りのない目で見つめようとする。

起きている出来事を調べる。問題を書き出す。

何がそうさせたのか。

そのどこに希望はあると私は見出すか。

問題から目を背けたくはないけれど

かといって諦めるだけの歌はうたいたくない。

絶望を突きつけるだけでは意味がない。

 

日本の音楽では語られづらいことも

黙っていたくはない。

その中に人の語られない言葉があるとするのなら

積極的にそれを開示して日の光に当てたい。

 

「こんな世界なら生まれたくなかった」

そう思う人がひとりでもいなくなってほしい。

色々なことがあっても悪くない人生だったと

思えるような人生を歩める人が増えてほしい。

これは私の欲張りな心からなるものだが

メッセージを歌に入れる以上は

これを言わずに死ねないという想いを

この先はのせていきたい。

 

これを歌うために生まれてきたのだと

思える歌をこの先は形にしていく。

行うべきこと以外にはなにも。

平和な1週間が過ぎた。

6月は中旬までが色々揺れたが

4週目の今はそれが嘘のように静かだ。

 

揺れていた頃に感じていた嫌気みたいなものは

余分なものを手放す時期がきたということのような気がして

そこから意識して手放した部分と

意識してないけどいっとき手放さざるを得なかったものと

その2つが重なって

本当に静かで集中力のある時間が訪れた。

 

この凪ほどの揺れがない時間の中で

自分の行うべきに一点集中させていくときなんだろう。

 

学びではあったが無駄な動きが多かった

贅肉のように付き纏ったそれを削ぎ落としていく。

ここから始めていくんだなと思うときは

大抵静かな時間が流れる。

 

ここには今なにもない。

行うべきこと以外にはなにも。

細々と作る。

今日はチリコンカンを作った。

トルティーヤチップスと共に。

あと昨日作ったカレーと、ぬけづけとお味噌汁で。

インド・アメリカ・日本の食が食卓に!

これは面白そうだとか食べてみたいと思える料理は

食材を買うときから作るときから食べるときまで楽しみが続く。

 

そして今日は零のトートバッグが終わっていたのだけど

バッグだけまだ残っていたので

夏のようなかわいい魚さんのバッグを作った。

とりあえず限定10枚で。

零から絵やCDを購入された方にプレゼントでついてきます。

零のページはこちら↓

https://www.creema.jp/c/zero_shigi

 

結構作品も受け入れ先が決まってきて減ってきた。

最近はカレーにどはまりしていたけど

色々な変化もあったのでそろそろまた絵を描こうと思う。

絵は描くたびに自分に対する発見がある。

 

クリエイティビティを捨てた表現者

佐久間裕美子さんと若林恵さんのポッドキャストを聞いていて

若林さんが韓国と日本の音楽の違いについて話されていた。

その内容がとてもよかったので

音楽をしている人が見ているかもしれないので以下

若林さんが仰っていたことを。

 

韓国のアイドルの音楽で

韓国版(世界版)と日本版の2つが出されているのだけど

日本版のミックスがすごくしょぼいという話だった。

 

韓国の方は音の奥行きや縦に伸びたり横に伸びたり

ひとつひとつ手編みで作ってるような音の作りに対して

日本のミックスは音がちんまりまとまって奥の方に引っ込んでしまっている。

 

それは技術的な差というよりもマインドセットの問題。

「これやればいいっしょ」的な姿勢が仕事に表れている。

 

ミキシングを通して物語を作るという発想がない。

自動運転みたいな仕事の仕方になってしまっている。

社会全体が「これでいいっしょ」という仕事を続けることで

想像のクオリティがどんどん下がっていく。

今までやったことのないことをやるのが文化セクターの役割。

 

以上のことを仰っていた。

これはとても身に覚えがあって。

私が音楽をしている人と接していても

上記のような自動運転的な音楽の作り方をしている人がいる。

 

自分がしてきたことをするだけ。

今まであった音楽の延長線をやるだけ。

「これはこういうもんだからこれでいいっしょ」みたいな姿勢。

クリエイティブというのは今までにないものを生み出すということ。

それは今までの音楽になかったものというのもあるけど

今までの自分にはなかったものということでもある。

 

以前ちきりんさんのvoicyで

「表現者は表現するだけで嬉しい」という話があった。

 

私が音楽やブログをこうして続けていると

「よくそんなに続くね」という人がいる。

でも私にしてみれば

続かない、止めるという選択肢がそもそもないので

続くとか続かないとかがよくわからない。

息をしているのと同じくらい自然な行為だから。

 

そんな中でちきりんさんの上記の話を聞いた。

表現者は表現するだけで嬉しい。

数字になるとかお金になるとか

そんなことは関係なくて

ただそれをすることが好きだからやっている。

その先に仕事になっていく。

さかなくんも成功しようと思って魚に詳しくなったわけじゃない。

ただただ好きだからその先にそうなった。

数字や成功を目的にしている人は

好きが目的ではないので続かなくなる。

 

という話だった。

私がまさにそうだから首がもげるほどたてにふった。

これをお金にしていくために、とかはあるけど

ならなかったとしてもずっと続ける。

なぜならそれが好きだから。

 

クリエイティブは新しいものを常に考え作り続けること。

そこに興奮や驚きや喜びがある。

もちろん苦悩もある。

エンタメの業界においてもクリエイティビティをもたない人が

言われたことや知ってることをやるだけ、という仕事をする人が

とても多いのは知っている。

それがどんどん日本の音楽の質を下げていくことも。

業界の人の中には「それがリスナーが求めてるから」という人もいるけど

リスナーはそんなに馬鹿ではないと思う。

自分の怠慢を隠してリスナーのせいにしているみたいで

そういう言い方をする人には怒りを感じる。

 

 

華氏451度に

表現というのは人を動かす、それは不快にさせるということで

それを恐れる人がどんどん平坦なことばかり書くようになっていく。

そんなことが書かれていた。

新しいことというのは脅威になる。侵害、不快、そういう気持ちになる人もいる。

心が揺れ動くということだから。

けれどそれを恐れてはいけないと私は思う。

 

表現というものは常に自分の欲求と作品としての冷静な精度との

ギリギリのせめぎ合いの結果にできるものだ。

「こんなもんっしょ」という態度は音楽への侮辱だ。

他の仕事ならまだしも

ものをつくるという役割をする人が

そういう姿勢でのぞむのは本当に危険なことだと思う。

作品に対して、音楽に対して、自分のしていることに対して

もっともっと真摯でなければ、本気でなければつまらない。

 

付き合っていきたい人はどういう人か。

昨日は人と会う予定が2本立てだった。

帰り道にひとりで

ストレスの感じない時間だったなと振り返って思った。

私はわりと誰とでもその場では話を楽しくできるのだけど

でも自分が求めてない話が続くとストレスが溜まったりして。

場を盛り上げることができるだけに

ひとりになると疲れたりすることも少なくなかった。

けどこの日はそれがなかった。

 

決めると変わるんだなということを実感した。

なんでもウェルカムだとこうはならないだろう。

 

目的に向かって話し合ったり

お互いの近況を伝えて認め合ったり応援しあったり

そういう時間が私の求めている人との関係性だなと感じた。

 

今自分がやっていること

やりがいを感じていること

この先やっていきたいこと

そういう話しがしたいし聞きたいし。

社会的なことにやりがいを感じて行動する人

そういう人と付き合っていきたいんだなと感じた。

 

言葉にすれば簡単なことのようだけど

社会的な意識を持って生きて仕事してる人とか

お互いに人としてリスペクトしあえる人とかって

振り返るとそんなにはいなくて。

 

特に異性だと

変に異性としての視線で見られることがあったり

交わしつつもやってきたけど

そういう人は本当に付き合えないなって最近実感する。

 

男とか女とかじゃなくて

人として付き合っていける人と付き合っていこうと決めた。

自分の感覚と全く同じじゃなくても

向かっている先や大切だと思っていることが似ている人と生きていきたい。

そういう人と新しいことをして成長していきたいな。

 

この日はそういう付き合いができる人と会えたので

とっても心が優しい気持ちになった。

保護中: 今後のシギの活動について

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