まだその情熱は生きているか

夜更けにある歌手の事を考えていた。
最近よく聴く歌手を友人に聴かせたら、
「裸の気持ちで歌っている人は、いつか無理が来た時に死ぬ道を選びそうで切なくなる」
と言っていた。
人による正解に近づけるのではなく、己が持つ正解を求めて歌をうたうこと。
人が感じる格好良さではなく己が持つ美学に基づくもの。
その人が歌をうたう理由はその人が生きているからで、
その人が生きていないということはその人の歌が新しく生まれなくなったのと同義かもしれない。

私はそんな想像はしたくない。
苦しみは生きるために存在する。いつかそうだったのだと答えがでる日まで。
少し前に、私が勝手に自分に近いなと感じる歌手が自殺をし、
私の身近でそういう亡くなり方をする人というのは一人もいなかったので結構心に衝撃を受けた。
親近感を感じていたからなおさらに。ふわふわとした気持ちで過ごした。
その人には誰にも言えない言いたくない理解されなくてもかまわない部屋を持っていたんだろう。
それがその人自身にも抱えきれなくなったのだろう。
自殺は肯定も否定もしない。簡単に死ぬなとは言えない、けれどただただ寂しい。
あなたが苦しみさえも歌に出来なくなった時、情熱も共に死んで地に帰ってしまったのだろうか。

はじめに書いた人とその亡くなった人は違う人だけれど、
自分の音楽に近いものを感じる人を失くしたくない。これは私の我がままだ。
苦しいのは百も承知だから、それでも私は生きて歌っているのだから、
あなたも生きて歌ってくれと私の心が叫んでいる。それは私の我がままだ。

純度が高いと照りつける日差しが眩しすぎて先を見失うことがあるのかもしれない。
他の誰もがわからないと言っても、私はわかりたい。
その歌手の事を何も知らないだろうと言われても、私は知りたい。
自分が良いと思う人はどこまでいっても守りたい。それが悪だと、間違っていると言われても。

人はひとつになれないからこそ、その人をわかりたいと思うのではないか。
その痛みを、愛を、優しさを。