不愉快の正体

このブログを見ている方の中には

私のことが好きではない人もいるかもしれない。

例えば「好きじゃないけど何か気になる」とか

「むしろ気に食わなくてケチをつけたいから見てる」とか。

 

興味があるというのはとても大切な事だ。

自分以外の他人という事

においての興味は広く持っても

特定の誰かを嫌いになるほど

個人的に人に興味をもつことがほとんどない私は

嫌いだな!と思う人がいない。

 

私の便利な性格だなと思うことのひとつに

結構いろんな人を傷つけてしまったな

と思うことはあっても

あいつにこんなに傷つけられた

と思う人がひとりもいないことだ。

その時は腹がたっても、

傷つけたな!と思っても、尾を引かない。

 

車で人とよく喧嘩していた時期も

その人が嫌いだからしていたわけではなくて

その人のした行為が気に入らなくてしていた。

だから、根にもたないのだ。

その気に入らない部分を憤慨したら

もう終わりなのだ。

 

私は、嫌いな人はいなくても

人のしていることや言っていることに対して

腹がたつことは山ほどある。

たまに、

「どうでもいいから腹がたつこともないしぃ♪」

というモードの自分になる時があるけれど

そういう時は大抵、

楽をしたいと思っている時なのだ。

 

この不愉快の中にこそ

自分を知るキーワードが隠されている。

何かに腹がたつということは

動物的にも正常なことである以上に

その人がその人であるために

とても自然なことなのだ。

 

「この人のここが不愉快」

という所に着目する。

どういう事に不愉快になるのかを挙げていく。

私の場合はその不愉快な部分が

自分の中の

「直したいと思ってるけど直せずにいる。

自分で認めたくない自分」

である事が多い。

直視したくないから人に見せつけられると不愉快になるのだ。

「あーもう!見ないでおいたのに!」

となるのだろう。

これは意識しないと気づかない。

 

例えば

「この人自分に甘いな、だらしないな」と思って

イラっとする事があるが

もろに自分に当てはまる。

 

 

あとは羨ましいという場合もある。

「なんで私は我慢してるのにあいつはやってるの!きー!」

言葉にすると情けない。

例えば車の喧嘩はそう。

これは羨ましいとは違うのだけれど。

「どうして私は周りの車にも気遣いをしているのに

あいつは気遣いをしないんだ!きー!」

という所だろう。

そんな事は相手からしたら知ったこっちゃねぇ、

という感じだが

大抵の世の中の怒りは

「知ったこっちゃねぇよ…」というくらいの

些細なレベルが大半なのだと思う。

自分の美徳に反する、という場合ももちろんある。

大体の不愉快がこの3点のうちに当てはまるのではないか。

 

そう思うと、不愉快の中に自分の中に隠してある

感情を知る事ができる。

とっても大切な存在なのだ☆(ハム太郎風に)

 

愉快なものの中にも自分を知ることはできるけれど

大抵痛みを伴わない実感というのは

考えなくてもわかることが多いため面白くない。

自分がみたくない自分

自分が不愉快に感じる人

というのは

とっても面白い存在なのだ☆

そんな事を今日は考えていた。