自分を殺す人

子供の自殺が戦後一番の増加をしているというニュースを見た。

その記事の中で

「子供の『この先も苦しみが続く』という思い込みと

『自殺する事以外で解決策がない』という認知の歪みを正すことが

必要だ」と書かれてあった。

私はこの記事を読んだ時に、

この先も苦しみが続くのは思い込みではなく事実だし、

子供が自殺すること以外解決策がないと思うのは認知の歪みではないと感じた。

 

 

そして子供の自殺の要因として

いじめよりも上位にくるのは

家庭内不和や親の躾や叱責だという事に驚いた。

家と学校が世界の全てくらいの狭い環境の中で生活して

その家が苦しい場所だったら毎日が地獄だと思う。

自分で稼いで家を出ることもできないし

SOSをどこかに出しても、その先の人に恵まれれば良いけれど

親に言いくるめられたり、もっと悪化したり。

 

中学生、高校生になればサボるという選択肢も

狭いなりにできたりもするけれど

私が幼稚園や小学校低学年時代が特に嫌なのは

サボるということもできない、逃げることができない

いやな場所にずっといなきゃいけない、

それができなきゃだめで、できるのが普通と言われること。

「どうして居たくない場所にいなきゃいけないのか」

「どうしてそれができないといけないのか」

その問いかけに対しての納得できる答えは

大人の誰も教えてくれなかった。

そういう事を押し付けてくる人たちの言うことは

何か本当に自分がそう心から思って言っているというよりも

「そういうものだから」というような曖昧で

誰かから借りてきたような

思考がとまってるような言葉のように感じる。

 

だから私はある程度自由になったら積極的に学校をさぼった。

ある日、中1の時に廊下を歩いていると

すれ違った年上の中学生に

「後輩なのに挨拶ないんだー」と通りすがりに言われたことがあった。

顔も名前も知らずにそれ以降会ったかどうかもわからない人だったけれど

衝撃で今も覚えている。

「年が1つ2つ違うだけで別にあんたはえらくないからな」

と思い挨拶はしなかった。

なので体育会系の先輩後輩関係が好きじゃなかった。

礼儀というのは年齢にかかわらず相手に対して持つものだと思うし

年が上だから敬い、下だから偉そうにするという考え方が

私にはわからなかった。理解はできるけど、良いと思えなかった。

それって、めっちゃだせーし、めんどくせー!と思った。

だからよくわからない良いとも思わない年上の人の言うことは聞かなかった。

でも自分が面白いな良いなと思う人の言うことは

年齢や状況に関係なく受け入れた。

 

最初に話を戻すと、

 

「子供の苦しみなんて少し我慢すれば独り立ちできるんだから」

「苦しいばかりじゃないし、親は厳しくしててもあなたを愛してるの」なんていう

なんの役にもたたない言葉をいう大人もいるけれど

苦しいと感じた出来事は、苦しいのだ。

隣の人が「そんなの大したことがない」と言ったとしても。

そしてそれがずっと続くのなら、それはずっと苦しいということだ。

例え世界中の人が苦しんでいたとしても

「苦しいのはあなただけじゃないんだから我慢しな」というのは

不誠実だと思う。

そういう不誠実さの積み重ねの結果

いろんな苦しいが生み出され放置されているように感じる。

 

どれだけの人間がどれだけの不遇にあったとしても

その人が感じる苦しみはその人だけが感じているものだから。

視野が狭いのではない、それが事実だ。

「自殺という手段しかない」というのは

子供の思い込みでしかないと仮定したとしても

苦しい場所から逃れたいと思うのは自然なことで

弱いことでもなんでもない。

むしろ生きていくうえで自分が傷つく場所から自由になろうと

思うことは動物的にも当たり前のことだ。

その逃れる手段が自殺しかないというのなら

他の手段を作り、伝えるために何ができるのだろう。

家庭内不和ということは

子供だけではなくその親も何かしらのストレスに

襲われている可能性が高いと思う。

そういう状態を「当たり前のこと」で

「世間はそれが普通」で

「家庭の問題は家庭が解決するべきこと」で

「それが出来ないなら親失格」だったり

「弱い子供」だとしたら。

我慢を美徳としてきたこの国のあり方の

転換期に来ているように思う。

 

この世界は必ず誰かが泣くとしても、

必ず誰かが犠牲になるとしても、

それを仕方ないこととして見ないことをしてはいけない。

苦しみに喘ぐ人を見ているのは辛いことだけれど

それでもそこから目を背けたくない。

苦しむ人の苦しみに寄り添い自分の心も苦しんで

そこからの解放のために何ができるかを考え

自分の無力さを感じながらも

それでも少しでもよくなるために実行し続けること。