放棄しない。

登戸で起きた事件に言葉を失う。

犯人がなぜ事件を犯したのか

人となりなども出ていないからわからない。

今までも繰り返されてきて

これからもきっと繰り返されるだろう事件。

これをきっかけに模倣をする人も現れるかもしれない。

この犯人が社会的な恨みからの行動なのか

意図的な行動なのかはわからないけれど

秋葉原の無差別殺傷事件など

社会から冷たくされ無視されてきた人の虚しさや孤独は

やはり最後は怒りとなる。

どうしてもそういう人たちを自己責任で突き放すことができない。

私の「僕は寂しかった」の CDのタイトルは

そのような意味合いが入っている。

悲しみや寂しさが人を怒りに向かわせる。

無論、怒りは強いエネルギーであり

使いようによってはそれが誰かや何かのためになったりもする。

しかしこういう場合の怒りのエネルギーは

なるべく鎮火させたい。誰も救われない。

事件を起こす人たちの中で異常な人は少ないように思う。

ほんの少しのきっかけで、少しのボタンの掛け違いで。

心の暗がりが爆発を起こす。

ホームで財布を落とした時に「あ、もう死のう」と思った人がいるように。

私もあなたもいつ誰が転ぶかわからない。

怒りによる悲劇をなくしたいのなら

「知らない」「わからない」「関係ない」ではなく

社会に生きるひとりとして

なぜその人がそういう行動をしたのかを考えたい。

そして辛いのは亡くなられた人だけではなく

その周りに関係する様々な人たちの全てが悲しみにくれる。

関係のない私でさえも悲しみにくれるのだから

近しい人は如何程の痛みに襲われているのだろうか。

その人たちの心を想像すると言葉には表せない。

どこにも救いようがない出来事から

自分にできること、自分で考えられることを探している。