なんでもない私

今日は数日、いや数ヶ月

わりと心の中で思っていた事を

告白した日だった。

結果がどうであろうと

自分の気持ちになるべく嘘をつかないで

これからは生きていきたいと思ってたから

自分の気持ちを伝えたら

後がどうなるかは天のみぞ知る

という所で天に預けるような気持ちだった。

今後もそういう感覚で生きていきたい。

自分の選択によって

何かは失われるかもしれないし

失われないかもしれない。

必要なものは失われないのだな。

先のことはわからないけれど

なんでもない私のままで生きていく。

それが一番自分の理解に繋がりそうだ。

「すごい」という呪い

数日、季節外れの鍋大会を開いていたのだが

それでも白菜とえのきが余ってしまい

これを何にしようかと考えた結果

回鍋肉のタレを混ぜたら美味しいんじゃ!?と思い

白菜えのきオンリー回鍋肉を作ったら

めちゃ美味しかった。

残った汁にご飯をつけて食べたらこれも美味しかった。

「これとこれを足したらよくなるんじゃないの」というのは

料理のみならず音楽や会社の企画など色んな事で使える。

 

それにしても料理も洗濯も掃除もやはり楽しい。

私が自分の好きなところは

楽しめるけど疲れてる時はやらないから散らかる

という部分だ。無理してまでやらない。

この余白を持てないで責める自分もよく現れるので

「いやー疲れたしやらないっしょー」と感じて実行できる

自分がいると好感をもてる。

でもきっとこれに子供がいたら大変な気がする

それに仕事もしていたらもっと大変な気がする。

それでもこなさなきゃいけないからとこなしている

人たちの事を考えていたら

「すごい」という言葉の使い方に至った。

 

「育児ができるパパはすごい」

「仕事も家庭も完璧にこなせてるママはすごい」

こういう「すごい」との評価を目の当たりにすると

それができない自分はイコール駄目のように感じる。

私みたいな人間はそもそも子供の頃から

人と自分を比較しない(できないとも言える)で生きてきたので

このすごいという呪いにはかかりづらいのだけれど

一生懸命頑張って、それで余裕をなくしている人にとっては

この世間からの「すごい」という言葉が

時に重くのしかかったりするんだろうなと思った。

 

他人からの「すごい」を期待するよりも

自分で「私すごいじゃん」「私やるなー」と思える瞬間があったら

そっちの方が心は豊かになりそうな気がする。

自分の味方になれている瞬間てのは心強いものだ。

自分に優しくするって難しいね。

 

そもそも他人に「すごい」という評価をつけること自体が

どこか偉そうな感じがする。

とはいえ思わず本当にすごいのを目の当たりにすると

「すげー!!!」と言っちゃうんだけど。

評価主義は、競争が激化する社会においては

大事な事だったかもしれないけれど

果たして成熟しきったこの先の社会にとって必要なのかどうか…

それは台湾に行った時にも感じたことだったので

時間をおいて書きたい。