思い立ったが吉日

歌うだけのも少し退屈な気分だな。と思い

少し雑談をしてみました!

最近、気になる番組以外はテレビを見なくなって

代わりにyoutubeを流し聞きする機会が増えたので

私も流し聞きしてもらえるようなの作ってみようかな

と思い、思い立ったが吉日とばかりにその日にとってみました。

良い感じだったら続けようかな〜と思います。

シ組、今後のイベントとコンテンツの追加。

シ組の方に向けたブログになります。

 

1つめ!

前にシ組で行なっていくコンテンツについての

アンケートをとった結果

「歌詞についての話をききたい!」

という声を頂いたので

歌詞についてのお話をするコーナーを

作ろうと思います。

お楽しみにしていてください♪

 

2つめ!

こちら質問です。

今後のシ組の活動に関しまして

オフラインでのイベントを行いたいなと思ってます。

昨日ライブハウスに関する新様式が出されましたが

あれだと厳しいかもなぁというのが私の感想です。

ライブに関してもう少し考えさせてください。

 

ライブ以外に出かけたりするイベントを行えないものかなと

思っています。

コロナの影響を考えるとだいぶ人数を限ると思いますが

気をつけながらも何か楽しい集まりをしたいというのが私の気持ちです。

 

「アフターコロナ」といえるのはまだまだ先の話になると思い

今はコロナにかからないように気をつけながらも

シ組の活動をストップさせたくないので

緊急事態宣言がひとまず区切りがついている今からこの先

オフラインでの活動も可能な限り行っていきたいと思っています。

 

そこでみなさんにお聞きしたいのはお気持ちの話です。

参加するのに抵抗はありますか?

むしろイベントを行ってほしい気持ちをお持ちですか?

東京都内は怖い、他の地方都市のような別の場所の方がいい、など。

イベントよりもオンラインの方を増やしてくれた方が嬉しいなど、

みなさんのお気持ちをお聞きしたいな、と思いお聞きします。

 

え!?どうやって聞くかって!?

ここで新機能を使うのさ!(使ってみたい)

お問い合わせフォームならぬものが機能にあったので

もしよかったら書いて送ってください。

お問い合わせフォームではなくても

シ組のメールアドレスに送信してもらうのでもOKです!

お名前は書かなくてもペンネームなどでも大丈夫です!

 

あとコロナの影響によってうちの店がやばいとか

親や兄弟の店がやばいとか、そういうのがありましたら

そちらも聞きたいので、書いて頂けるとありがたいです。

大変な状況のお店(飲食店などは特に)には

可能な限り足を運びたいなと思っていますし

私にできることがあればやりますので

ぜひお気軽にお伝えください!

 

お待ちしてまーす♪

 

経験という本棚。

だんだんと遊びの要素で人生を見るようになってきた。

去年の私が聞いたら5度見くらいしてきそうだ。

 

前まではどこか(外側)に答えがあって

それが見つかれば自分が大きく変わっていく

みたいな所があった。

それがぐるーんと真逆に変わった。

 

今は自分の中に答えがあって

自分が本当に良いと思えるものを作っていった先に

出会いや流れに身を任せて

自分の意思で作り上げる部分と

自分では動かせない部分とが合わさって

人生が彩られていくんだ。

という感覚になった。

 

前者の「自分が作り上げる」が強すぎると

全部コントロールしようとして力んで

思うような結果がでないとひどく落胆しがちになり

後者の「どうにもならない部分に預ける」が強すぎると

自分で作り上げる部分がさぼりがちになって

巡り会いの他力ばかりに偏ってしまいがちになる。

そうなると言い訳も「俺ちゃんは縁がないんだ」とか

「運がないんだ」とか周りのせいにしたくなる。

どちらにも偏りすぎないように(今の私は)

今はどれくらいかなー、と比率を考える。

 

「自分が本当に良いと思えるものを作る」

というのは一見当たり前のようにもみえるし

ものづくりをしている人間ならなおさらだろと思うかもしれないが

これをできている人って少ないと思う。

みんながどこかしらで何かを気にして調整したりしている。

その調整も美学のうちになるならいいんだけど

「びびってそうしてる」という人も多いのではないかな。

私自身も昔の自分に縛られてたり、周りの言葉を気にする所があったり

自分の心が純粋に良いと思えるものの基準ではなかったというか・・

 

むしろ「純粋な自分の心がよいと思えるもの」というのが

わかるというのはなかなか容易いことではない。

自分の心地という感覚を知るためには

心地良さだけではなく悪さからも学ぶ必要があって

そうなると経験が必要となってくる。

 

「自分らしさ」や「本当の自分」ってのは

巷ではありふれているけれど

それがわからないという人も多いと思うし

自分だと思ってたのが受け売りなだけだったという事もある。

 

 

私は昔から自分への興味は人一倍あったので

自分が何を好きで嫌いで何がしたい人間で

というのは結構わかっていた。

それを人の事を考えたうえでバランスを調整していた。

けれど今年はそのバランス一回崩してみよう、と思った。

なんで崩してみようと思ったかというと

人生は一回なのだからバランスをとりながら生きてばっかじゃ

つまらないな、と思ったから。

たまには思いっきりバランスを崩して、そこから感じたことも

私の経験という本棚に追加したいな、と思ったから。

 

そう思うと、「猪突猛進なのに頭を使って調整してきた」自分から

「猪突猛進の自分!」に切り替わったことで

突き進めー!ひゃっほー!と人生プレイモードになった。

まだやりたいことのほとんどができてないんだけど

それでも体感としては楽しさ重視で生きることに

新鮮な違和感がしていて、

それは夜の世界しか知らなかったものが

朝焼けの美しさにドキドキするような

そんな心持ちに似ている。

 

そうやって見る世界の輝きが変わってくると

人間関係に対しても変化がでてくる。

 

類は友を呼ぶというのは当たっていて

自分の感覚が変化していくと

自分の周りの空気感や言葉に今まで以上に

馴染まなくなっているのを感じる。

「外側に求めているのではなく、自分から積極的に行動していく人」

その真逆の人が、昔の私のように身近に存在していると

あぁもうそこからは離れる時なのだな、と感じることが増えた。

 

今までの自分では

「まぁでも人は人だしな。しょうがないだろ」と放置してたけど

そこも本当は自分から作っていくものなのでは・・?

と思うようになった。

どんな人といたいか、どんな環境でありたいか。

自分で自分が良いなと思うものを作っていった先に

その時の自分に合った付き合いが生まれていく。

だから、「周りの人間は他人だからなんだっていい。」

なんてことはないんだよ、シギくん!

自分が良いと思うものを思い切り描いてごらんなさい!

自分の意思で、好きなように描いてごらんなさい!

君の人生は、君の手で描いていくものなんだから!

関わり合いたい人と関わるんだ!

君が人生の監督だ!君の指図を君の人生は待っている!

 

そんなことを思ったりしているこの頃です。

「自分の欠点を直さない」に挑戦

緊急事態宣言が出される前から

予定を色々キャンセルし

ここぞとばかりに

「これは決まってるから準備しないと」みたいな

そういうスケジュールに縛られなくて良くなったのを利用して

自分の事について掘り下げ

やりたい事をやろう、と落ち着いた。

 

やりたい事がたくさん増えていくと

今まであったものが邪魔に思えてくる。

両手に荷物を持ちながら

さらに荷物を持つことはできない!

ということで部屋の整理などした。

 

「面白いと思うことがある」「やりたいことがある」

それだけで世界の色は変わるもので

しかしそうなってくると、

次第に「良くない(と自分で思ってる)自分」が

気になるようになった。

 

身動きとりづらい物を捨てる、

めんどくさい付き合いはしない、

そうやってソリッドにして身軽にしていくと

次は自分の嫌な性格もめんどくさくなって捨てたくなった。

 

もともと自分の中に鬼軍曹がいるので

鬼軍曹ではなく自由な自分に舵を渡したはずなのに

いつのまにか「自由な私を手に入れようとする鬼軍曹」が

現れだしたのだ。。なんの因果。

 

この間も書いたけれど

ネットでコメント見る時間がもったいないとか

このサイト見てる時間に他のことできるのにとか

例えばそういうパソコン関連でも

鬼軍曹が色々と采配を振るおうとしていた。

 

「これじゃ自由のために不自由になるようなもんだよ。」

と半ばそんな自分の扱いに困っていた。

 

けれどそんな時にひょんな言葉と出会う。

「真面目な人はダメな部分を直そうとする。

でもダメな部分を直そうとするとそのダメな部分に集中してしまい

結果良い部分が伸びなくなる。

よって、ダメな部分はそのままでいい」とな。

 

えー!そのままでいいだってー!?

ぽろぽろ(目から鱗の音)

確かに私も大変長らく「この自分さえいなければな・・」と

思う自分がいるのだけれど

そう言われてみると「この自分さえ」の自分に捉われてたな。

それでテンションもなんかだるーって身重になってたなぁ。

 

なんてことをその言葉から振り返り思った。

そして私はひとつ試してみることにした。

「嫌な自分を一切否定もしないし直しもしない!」てことを。

 

本当なんでずっとネットみてうだうだしちゃうのかしら

→ええでええでええのんやで。きっと面白いものを見つけたいのだろ。

なんで体を休めるのが苦手なかわりに起きれないのかしら

→ええでええでええのんやで。眠い時は眠り眠くない時は寝ないでええのんやで。

 

という具合に、

今までだったら「なんでだろう→こうしたらいいのかな」

となるところをあえての全肯定。

そして全肯定する代わりに、

「やってみたいことをやることに集中しましょうね」とか

「気分が良くなることに集中しましょうね」とか付け加える。

そしたらそうなったバージョンの私から何が生まれるのだろう。。

見てみたい!

 

今年は私にとって大事な節目になる。

だからこそ自分を無理やりに動かすのではなく

自分のやりやすい状態を知った上で、

陳腐な言葉だけれど

自分の王国を自分の手でで作っていく

という事をしていきたいと思っているこの頃です。

 

皆さんも、克服したい自分がいる場合

敢えての克服しない道を挑戦してみるのも

面白い結果になるかもしれません。

考えつかなかった方の経験をしてみるのも面白そうだ。

迷ったらやりたい方へ。

カットしに美容室へ。

 

前日、私は悩んでいた。

今の髪型好きだけど冒険してみたい気もするなあー

もう全部染めちゃおっかな?

むむーでも悩むなぁ。

でもあんまり人に会う予定もないから

冒険して微妙だったらそれはそれでいいっか。

でもでもなー!

と、でもでもだってちゃんを発症していた。

 

そして当日、カットだけでいっかとなった。

最初に少し要望を出してから

切ってもらいだしたのだけど

途中で話が通じあってなかったことに気づき

美容師さんとふたりで「・・・どする?」となる。

そして私は昨日、冒険しようか悩んでた話をする。

すると「え、じゃ染めちゃう?」と美容師さん。

私はこういう「え、じゃやっちゃう?」的なかけ声に弱い。

なぜなら体がすぐ「やっちゃうー!!」と乗っちゃう人間だからだ。

そして案の定「やっちまいますか!やっちまいますか!」と

暴走し、のりで全部染めることを決行。

 

途中、ブリーチで髪の色が抜かれボリス首相が来日。

 

髪を洗ってくれたりする助手の女性からは

「明るい色とか絶対似合いますよー♩」

「この間の髪型も超似合ってましたよー♩」

「絶対かわいくなりますよー♪」なんて

お金も出してないのに褒めちぎってもらい

すっかり良い気分になりながら

『このあと「この壺と合わせたら超かわいいですよー♩」

とかいって壺買わされないだろうね』なんてことを

思ったり思わなかったりしながら

私と美容師さんと助手の女性の三人で

出来上がった!

 

途中のボリス首相の時は違和感もありながらも

白よりの金髪も冒険してみよっかな・・・と思った。

 

今年から

やってみたい事をやる人生になおさらギアをいれる事にしてるので

今回も良い挑戦でびびりながらもドキドキを楽しんだ。

結構黒髪が良い勢も私の周りにいるので

「絶対黒髪がいいよー」という声に今まで押されてやれなかったのだけど

これからはそういう声にありがたく耳をふさぎながら(聞いてない)

自分の試してみたいことに一歩踏み出そうと

なおのこと思ったとさ。

人を傷つける人の気持ちを受け止める。

この頃、このブログで特に書いている「自分自分」という話。

「自分ばっかで社会的なことには無関心でいいんかい?」

という声は別にないんだけど

私は社会的なことのためにもむしろ

「自分を知ること」や「自分と仲良くなる事」

を推し進めたいと思って書いている。

 

被害者でも加害者でもない立場の人が

「差別はよくない」「中傷はよくない」といったところで

それを言う人はまず差別も中傷もしない人だ。

そしてそれに同意する人もまた、差別も中傷もしたりしない。

そのしない人たちの中で「やめよう!」という言葉が行き交うのを見ていると

当事者不在のような気持ちがわいてくる。

差別や中傷をしている本人はどこにいるんだろう。

 

人を傷つけることが快感で仕方がないサイコパス的な人の場合

恐らくそれは好きでやっていることなのでどうにもならないのかもしれない。

 

けれど、自分の生活や環境、自分自身に不満がある人

劣等感から相手を傷つけてやりたいと思う人は、

そこが解決できれば

意図的に人を傷つけたりしなくなるのではないか、と思った。

(意図的にと言ったのは、

無意識や無知から人を傷つけることは誰しもがしてしまうことだから。

今回はわざとやっているという方。)

 

私自身にできることは、

自分がまず無知である事を大前提にして相手の話を聞くこと。

「自分には知らない世界がある」という事が心になければ

被害者が勇気をだして声をあげることや

フェミニストが何度蔑まれても声をあげ続けることに対して

(そもそも私自身も女性でありながらフェミニストが…と他人事のような言い方を

するのにも違和感があるのだけれど、そこはここでは省略。)

「そんなにヒステリックにならなくても」「もっと頼むべき態度があるだろう」と

自分の倫理観やルールで相手をジャッジする、相手を変えようとする言い方になる。

 

 

相手が今までどれだけ苦しんできたか。耐え忍んできたか。

勇気をだし声をあげても

「証拠は?そんな言い方じゃ伝わらないよ?」と言われ

何回も何回も同じことを繰り返し説明してきたか。

 

これはいじめだと想像がしやすい。

いじめられた側が証拠を集め

周りに理解してもらうように言い方に気をつけ

周りの気に障るような態度をすれば理解を得られない。

なぜか苦しんでいる側が媚を売るように低姿勢で理解を求めなければいけない。

その構造自体が対等ではない。

 

なぜこういう状況がうまれるのだろう。

その一つには被害者でも加害者でもない状態の人間が

社会的に限らずある問題を目にした時に

ぱっと見の感想のように自分の考えを述べるだけで終わらせるからだ。

 

「自分の知らない環境、立場の人がいる」という事を前提に

「自分にできることは何か、何が自分は無知だったのか」

という事を前提に話を聞かずに

「私が聞いて判断してあげる」という心持ちがあるからだ。

 

無知・無関心・無寛容。

 

相手の話をまっさらな状態で聞く心の状態がとれない人(自分の経験や思い込みだけで判断しようとする人)は

苦しむ人の怒りをまっすぐな心で受け止めることはできない。

 

「さぁ、本当にかわいそうか俺が見定めてやろう」という姿勢になる。

 

でもこの時に私が考えるのは、

声をあげる人の声を消そうとしている人

つまり被害者が声をあげることを生意気だとかヒステリックだと感じる人は

恐らく自分自身の中に解決しなければいけない課題があるのではないか、という事。

 

そういう人たちによって被害者の声に壁が立ちはだかる。

けれどそこで無理解、無知、無寛容な人を責めるよりも

なぜその人たちはそういう所に落ち着くのかを考える。

 

もしかしたら無理解な人は、理解をされてこなかったかもしれない。

無寛容な人は、人から受け入れられる経験が少なかったのかもしれない。

特に幼少期、親の躾が厳しかったり、誰かと自分を比べられていたり、

そういう劣等感や不満が渦巻く環境で暮らしていたのかもしれない。

 

そういう経験を引きずっている人たちからすると、

自由になろうとする人たち、改善しようとする人たちの勇気ある声や

周りからの励ましが気に入らなく感じる。羨ましく、妬ましい。

そして足を引っ張ろうとする。言い方や態度や証拠や、色々なものを使って。

 

その時に大切なのは、

妬ましいと思ってしまう人が

妬ましいという気持ちを他人に向けずに

自分の人生を改善させる方へ向けてほしいと私は思う。

 

自分の人生を他人がなんとかしてくれることはほとんどない。

それに、どんなに自分が辛い目にあったか、トラウマや引け目をもってるか

そんなことを他人は見てこなかったのでわからない。

自分の歩んできた歴史がわかるのは自分だけだ。

だからこそ、自分の中に渦巻く苦しみや解決できないトラウマを

解放できるほう、解決できる方へ足を向けてほしい。

カウンセリングでも、ネットで調べるでも

自分について書き出しまくるでも、いい。

自分で自分と和解できないままに目を外にやり続けると

いつまでたっても自分の苦しみは変わらない。

その刃が他人に向けば、他人も苦しむことになる。

 

だから自分を知る、自分を愛する、自分に関心を向ける。

それが大切なことだと私は感じている。

これが自然とできている人も多い。

でも特に日本人は親や学校の教育によって

まっさらな自分を見つめられる人が少ないように感じる。

「我慢しなきゃいけない」

「ちゃんとしなきゃいけない」

「自分を出しちゃいけない」

こういう鎖に縛られながら、日常生活を送ることができていても

心の中ではどこかすっきりしない。

虚しさを感じながら生きている人が多いように思う。

 

そういう心を持ちながら他人を優しく受け入れることは難しい。

我慢して親切にしたところで「なんで私ばっかり」と被害者意識も芽生えたりする。

 

誰にとってもまずは「自分」で自分を癒したり満足させてあげられない限りは

他人に優しくできない、他人を理解することも難しい。

両手にたくさんの荷物を持ちながら、他の人の荷物を持つことはできない。

 

そういう劣等感や虚しさや余裕のなさから人を傷つけてしまう人にたいして

「人を傷つけてはいけません!」と頭ごなしに否定するだけでは

根本的な解決にはならないような気がしている。

苦しむ人への理解と共に

傷つけてしまう人の心理を理解しようと考える事も

大切なのではないか。

 

なぜなら、私もあなたも

いつ自分が被害者になり、加害者になるかわからないから。

わからない以上は、どちらの気持ちも理解しようと学ぶことが大切だ。

わからないなら、その経験をした人を見つめる、声に耳を傾ける。

 

「もっと自分を大事にしていい。

いや、むしろそうした方がいいし、そうしないとだめよ。

それはわがままなことじゃないのよ」くらいに社会自体が寛容になって、

多くの人の心に余裕が生まれれば

辛い境遇に立たされている人への理解や改善も進むのではないか、

そう私は思っている。

 

六月の手紙

この頃の私は

心が洗われるようなもの

センチメンタルになる切ないもの

そういうものを感じる時がとても気持ち良い。

 

外側では色々なことがあるけれど

自分がどうしていきたいとかもあるけど

そういう色々なものをひとまず横に置いといて

山頂についた時に荷物を置いて一息をつくような

そんな時間を愛しんでいる。

 

なので今月は

そういう気持ちになれるものをお届けしたいと思う。

曲は今のところ、切なさを感じられるような

夜景を見ながらひとり歩く時に聴いてほしいような

ひとりで何も見ないでお酒をゆっくり飲む時に聴いてほしいような

そんな曲をお届けしたいと思ってます。

まだ歌詞はできていません。

 

詩とのバランスを考えると

もう少し違うパターンの曲でもいいかなと迷ったりもしてるのですが

あくまでも今の時期にできた曲や言葉というところに焦点をおいて

それをお互いに楽しめる場所にできればと思ってます。

 

七月のお手紙に関しては

現在は定員をこえてしまっているので

空きが出来ましたらBASEやSNSやブログでお知らせします。

君がどう生きるかは他人が否定できることではない

悩んだりもやもやしていると気持ち良くないから

自分がすっきりするような正解が欲しいと思うようになる。

 

正解だと思えるものを見つけると、それを正しいと思いたくなる。

正しいと思いたいのでその正解と合わない意見を目にすると

「間違ってる!あの人はわかってない」と思うようになる。

そうなると言葉の使い方も

「これはこういうものだ」「これはこうあるべきだ」と断定的になる。

 

でも人の思うことというのは

環境や遺伝子的性格や経験やらで出来上がった色眼鏡を通して見る世界への感想。

この眼鏡は外せないし、外す必要もない。

 

色眼鏡が悲観的な色眼鏡と

楽観的な色眼鏡だったら

同じ事実を見ても真実はその色眼鏡次第で変わってくる。

もちろん私にも眼鏡はついている。

 

色眼鏡で見ることを悪いことだと言われることも多いけれど

外せるものではない。

他人の色眼鏡については想像することしかできない。

色眼鏡で見ることが悪いというより

「自分が思ってることは

あくまで自分の色眼鏡から生まれたことなんだな」という事を

すっかり忘れてしまい、

自分にとっての真実が誰にとっても当てはまるのだ!と思い込むこと

こうなると少し近寄りたくない人間が完成する。

そういう人間が集まると色眼鏡vs色眼鏡で争いが起こる。

でもこれは決着のつけようがない。

 

自分の色眼鏡って悪いことじゃない。

例えばこういう言葉のつぶやき

「好きの反対は、嫌いとか無関心とかじゃなくて、もっと別のものな気がしてきた」

私はこういう人のつぶやきが面白いなと思う。

その人なりの好きの反対の定義を作ろうとしているからだ。

 

「世間的にはこういうもの」「王道ではこう」

そういう話は、大体がどこかで聞いたような話だから

あまり私の心はくすぐられない。

でも、その人が自分の人生の中で感じた中から生まれた定義というのは

その人の色眼鏡だからこそ見える世界。私には知らない世界。

その世界を聞かせてくれるのって、とても面白い。

 

 

今回の話で言いたかったこと。

 

私はここのブログで色々な考えや発見したことなどを

自分の部屋なので好き勝手この先も書いていく。

でも、ここに書いてることは

全て「私」という色眼鏡を通して見えたものを書いてるから

それが、あなたには当てはまらなかったり

私が面白いと思ってるものが全然面白くなかったとしても

それは別々の人間だからごく自然なこと。

あなたが自分を否定する必要もないし、

私が自分を否定することもない。

 

たまにツイッターとかで

誰かの書き込みに対して

「私はそうは思いません」とか「私がだめってことですか?」

なんて書き込みを見たことがあるのだけど

相手が思っている世界に入っていって「私は違うんですけどお!」と

わざわざ主張しなくても、違う人は沢山いる。

その意見が違う人たちが

「私は違うんですけど!」とわざわざ声を荒げて言わないのは

恐らく「違っていても別にそれでいいしそれって普通」と流すから。

 

「違ってるから私は間違ってるの?」なんて、そんなことはない。

むしろ「私」が思ってることを「私が」大切にできていればいいこと。

 

いちいち気になってしまうのは、疲れて余裕がなくなってる時だったり

他人に気を使って自分に嘘をついて苛々しているという可能性もある。

人にばかり優しくして

自分を後回しにしてきて、自分がわからなくなっちゃってるとか。

 

そういう時は問答無用で、人の言葉はシャットアウト!を推奨。

「他人なんか知らんがな!はっ!」くらいの心持ちで

自分集中モードで、自分癒しモードで、自分に栄養あげるモードで。

自分自分、自分で良いのだ。あなたはあなたが一番。

あなたはあなたを一番うんとかわいがって。一番大切に思って。

私と違くても、違うのが面白いよ!って思えなかったら楽しくないから。

そしたら無理なくここのブログもいつだってシャットダウン。

 

「まじかシギ。おめえってやつぁ、そんなこと考えてるのか!

はー!おもしれーやつだ。おれもおれでがんばっぺなあ!!!」

くらいの気持ちで見てもらえると幸い。

 

私も友人のブログやツイッターなど見ている時は

「お!あいつ頑張ってんね。私もやるどー!」と思ったり

仮に内容が病んでても

「お!あいつ病んでんね。ま、そういう時もあるよねー!」と思ったり。

 

そんなこんなで、私は自分にとっての話をしつつ

同じように思う人との出会いを広げたいと思いつつ

自分の場所で、自分の旗をどんどんふわさーっと広げていく。

けれどそれは、「あなたも私のようであれ!」ってことではない。

むしろあなたがあなたの道を歩いて行くことを

私は全力で「それええやーーーーーーん!!!!!」と

応援しあなためがけて応援の旗を振りたい。

人の心を動かす教え

私の通っていた教習所は少し変わっていた。

 

これは今の時代ならではなのかもしれないけれど

教習所に入ると、最初にシートみたいなものに

「どんな指導をされたいか」というのを書く欄がある。

「打たれ弱いので優しい先生がいい、叱らないでほしい」

「ドMなのでドSな先生がいい」など、要望を書くのだ。

先生を指名することもできる。

 

そしてそこでは

「何曜日は占い師がくるよ」

「何曜日はネイリストがくるよ」など

教習所以外にもサービスがあるのだ。

完璧に商業施設だ!

 

そこにいる先生も個性的な方が多くて

ある先生は教習中に私が聞き上手だったからなのか

そこの会社の愚痴をずっとこぼしていた。

「社員旅行はどこにいったんだけどあそこがよかった」とか

「感想文を書かなきゃいけないんだけど

なんでそんなことしないといけないんだ」とか。

私は内心こいつすげえなと思いながらも

面白くて「それは大変ですな」と相槌をうちながら運転をしていた。(ただの先生を乗せたドライブ)

 

そして今でもたまに思い出すのは最後の路上教習。

最後の先生は、少し強面な感じのリーゼントっぽい先生だった。

他の先生とは雰囲気が違ったけど、違うのは雰囲気だけではなかった。

詳しい内容は覚えていないけれど、

教習所で習ったこととは違うことを先生はやっていいといった。

そして「前の車の流れについていってごらん」と言った。

 

先生はこう言った。

「教科書で習うことや先生が言うことは最もなことだけど

習うことと実際の現場は違う。

一旦道路に出たら、教科書通りのことよりも

道路で実際に走っている先輩から学んだ方がいい。

そこで何が良いのか、何が危ないのかを肌感で学ぶんだ」

 

先生!!!!!一生ついていきまっす!!!!

 

と内心思いながらもさらっと最後の路上教習は終わったのだが

その先生の言葉が今になってもたまーに頭をかすめる。

 

それはさながら「守・破・離」だ。

型や教わったことを守り

そこからそこをあえて破り

最後には指導者から離れ自分をさらに発展させる。

 

先生のその言葉は運転だけじゃなくて

人生の色んな場面において当てはまるなと感じた話で

今でもその言葉をふと思い出しては

私の人生は今どういう道だろう。教科書を気にして縛られているか。

破るべきところなのか。時代に乗るか。あえて外れるか。

などその時その時で自問自答する。

 

先生は学校の先生ではなく車の運転を教える先生だけど

私にとっての先生とはそういう存在だ。

ただの決められた教科書をただ伝えるという仕事ではなく

もっと広く深く、生きることについてまで通じることを教えてくれる人。

 

離れて何年も会わなくても、この先も会わなくても

先生の顔は薄ぼんやりと忘れていったとしても

先生が伝えてくれた教えは心に刻まれ生き続ける。

そして先生が死んだとしても想いは受け継がれていく。

そういうものを感じる時、人の素晴らしさ美しさを感じる。

こういう時、人間として生まれてよかったなと感じる。

保護中: 自分なりの三方良しを作る。*シ組*

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