最近は3つの考え方に軸を置いて物事をみるようにしている。
(今度youtubeのおはなしで話そう)
そのうちの1つがここのブログでもたまに書いているけれど
「愛か恐れか」という考え方。
昨日3度目の炎上をしているcakesの
あさのますみさんのnoteを見ていた。
今回のことを要約すると
連載が決定していたあさのさんの記事が
あとは掲載するだけといった段階になって
cakes側の都合でお蔵入りになりそうだ、ということ。
連載される予定だった記事の内容は
あさのさんの友人が自死されたことについて
その想いを書きたいとのことだった。
けれど今年に入って2度別件で炎上しているcakes側としては
自死というセンシティブな内容を載せたくないと。
そしたらまた炎上してしまうかもしれない。
載せたいならフィクションってことにしませんか?
というcakes側の提案に動揺とショックをあさのさんは受けた。
きちんとした内容が見たい方は
あさのさんのnoteを見てほしい。
今日、トレンドに「フルボッコ社会」という言葉があった。
短い間に2度炎上を経験したcakesとしては
3度目はなんとしてでも避けたいと思っていたのだろう。
炎上を経験していないからわからないけれど
フルボッコ社会という通り
1度炎上したらたちまちにボコボコにされる。
その影響を考えての判断だったのだろう。
あさのさんのnoteに対して
「自死というセンシティブな話題はどのメディアも
基本的には避けたがるのは当然だ」と言ってる方もいた。
それが今までの常識なのだろう。
これから先がどうかはわからないけれど。
今年に入ってから著名な方が立て続けに自死していること
女性の自死が増え続けていること
メディアでの自死の取り扱い方の難しさ
そういう色々な問題が
自死という問題を避けたがる。
それも想像ができるし、わからなくもない。
自死の話を目にすると希死念慮が出てきてしまう方もいる。
その話を載せるにあたり、どんな配慮をする必要があり
どんな影響がでる可能性があるのかを想像する必要がある。
それは一言で言えば面倒なことだと言ってしまえるし
それなら最初から触れなければいい、とする人がいるのもわかる。
しかし本当に、避けるだけでいいのだろうか。
避けたがるものを避けているだけではいけないのではないか
例え「そんなセンシティブなのどこも使いたがらんよ」という人がいても
それを必要とする人がいないとは、言い切れない。
影にある声を広げようと戦っている人がいる。
マイノリティとされる話題やその立場にいる人は弱い人なのではない
かわいそうなのではない。戦っている人なのだ。
先日書いたドキュメメントを見ていて
私はそういう思いを強くした。
「愛か恐れか」という言葉を眼前に突きつけた時に
cakes側のした行動は「恐れからくる行動」だと感じた。
炎上しそうなものは避ける
センシティブなものは避ける
問題になりそうなものは避ける
それはどんな気持ちから来ているかというと、
恐れからきている。
恐れから身を守りたい、という気持ち。
それは人間の本能的な気持ちでもあると思うから
無くすことはできないし、しなくても良いのだと思う。
企業としてリスクを減らすのは当たり前のことなのだろう。
それでもSDGsの運動からしても分かる通り
この先は自分の企業の利益追及だけではなく
倫理的だったり環境保全だったり
そういうものへの配慮も求められる。
私自身は自分の中の恐れや迷いを認識したときに
いちいち立ち止まるようにしている。
そして自分に問いかける。
「この行動は愛からきているか、愛へ向かうか。
それとも恐れからきているものなのか。」
もちろん0か100かではないから
愛で選択しても恐れがないとは言えない。
しかしどちらが先頭に、目的に、くるのか。
愛を選ぶためには、信念が必要だ。
そして、信念を生かすためには勇気がいる。
去年から私が書いていた歌詞は
・大量殺人という罪を犯した人間が抱えていた苦悩
・いじめの被害にあっていた人間が加害者になるまで
こういう歌詞を書いていた。(まだ発表していない。)
友人の自死を文章にすることがセンシティブで避けられるなら
私の歌詞も十分避けられるようなものだろう。
しかしここで、その目的はなんなのかを見失いたくない。
目的は、センセーショナルなことを書くことではない。
友人の自死も、いじめも、殺人も、
「行い」という形だけをとれば衝撃的だ。
けれどその行いの中には意味があり、気持ちが存在する。
その気持ちや意味を第三者が見つめ
想像しようとする必要があるのではないか。
それを避けて見た目だけで「センシティブなのでそれはちょっと」としていては
どんどん人間から想像力が失われていくのではないか。
この場合は、想像する場面を奪われている、と言ってもいいかもしれない。
想像力の弱い人は、人を簡単に傷つける。
相手の立場など、心境など、イメージできないのだから当然かもしれない。
イメージとは能動的な働きかけだ。育てていく必要がある。
そして加害意識は、私の中にも、あなたの中にも、
誰の中にも眠っている。無自覚に。
だからこそ自分以外のものの体験から、イメージする必要がある。
イメージさせてもらう必要がある。
私は「普通の人」といわれる人が避けたがるようなことを歌詞にしたのは
それを衝撃的と捉えられたかったからではない。
これは人間の責任だと思ったからだ。
その責任を私なりに果たすことが歌詞を書くことの目的のひとつだ。
自ら死を選ぶ人、犯罪を犯す人、それの犠牲になる人、
その全てが人間という社会の中で行われている以上
加害も被害も人間の中に内包されていて
その生きづらい社会を修正させていくように働きかけるのが
今の時代を生きる人間の責任なのではないか
「加害者」「被害者」という名前がつけられた人達だけの問題にしていては
いけないのではないか、そういう気持ちがしている。
人間としての苦悩や罪深さを見つめて歌にすることが
無念さや罪の昇華に繋がるかはわからない。
そんな力は私にはないかもしれない。ないだろう。
それでも、見て見ぬふりをしてはならないと感じている。
この社会の中に生きている人のどんな小さい声でも
その声が苦しいと言っているのなら
その社会に存在している人が耳を傾けなければ
なかったことにされてしまう。
人間にその誠実さがあるだろうか。
私はあると信じたい。人の中にも、自分の中にも。
しかしこの世の中でそれを信じることは易しいことではない。
それでもなかったことにして、平穏を生きることは
私の中の何かが拒絶している。
だから私は避けられるものをも歌にしようと思った。
自分が生きて表現したものに関しては
「これは愛のある選択をした結果なのだ」と
自分自身に思えるものにしたいから、自分を裏切るわけにはいかない。
生きている目的はなんだろうか
この行いをする意味はなんだろうか
信念はどこにあるのだろうか、どんな形をしているのだろうか。
自問自答する。何度も自問自答する。
「その行いは愛か恐れか」
しかし愛は正しさではないとも感じている。
ここを話すとさらに長くなるので割愛するけれど
「正しいか間違いか」ではなく「愛か恐れか」なのだ。
cakesとあさのさんのお話から
それは愛なのか恐れなのかを改めて見つめ直す機会になった。
あさのさんの連載される予定だったおはなしが
どんな形でもいつか読むことができ
自死された方のご家族やあさのさんの心に平穏が訪れることを祈って。