#006公開

零のミニアルバムの中から1曲お届けです。

就寝前、ひとりで散歩している時、落ち着きたい時など

リラックスしたい時やフラットになりたい時にぜひ。

零freedbyshigi 1st.EP「ゼロ イチ」

7曲入り ¥2,000(*絵画と同時購入される方は¥1,000)

 

 

声をあげるものを叩き潰すひとびと。

昨日、草津の町議会で性被害を告発した女性の会見を聞いていた。

裁判になるとの事なので

性被害がどのようなものだったのか

今その内容や結果はわからないのでここでは触れない。

 

その会見はネットで配信されていて

見ている人がコメントできるものだったのだが

コメント欄が地獄だった。

 

告発した女性に対して

「豚」

「町長のこと誘って断られたから腹いせだろ」

「胡散臭い顔」

そんな言葉が並んでいた。

 

性被害について声をあげた人に対する二次被害はひどいものがある。

勇気を出して自分の顔が晒されるのも覚悟で声をあげた人に対して

気に入らないからと、嘘っぽそうだからと裁きをいれる人たち。

容姿に対する中傷も容赦がない。

それを見ていたら、なおさら声をあげるのは怖くなる。

 

声をあげれば「性被害にあった人なら声なんてあげられないはず」と言われ

証拠がなければ「証拠がないなら信じられません」と言われ

証拠があれば「証拠があるってことははめるつもでやったんだろ」と言われる。

まさに泣き寝入りする状況を加害者被害者以外の人々が作っているのが現状。

 

これはフェミニズムとかの問題ではなく

人の尊厳の問題だと私は感じている。

 

働いていて性被害にあう。

セクハラといえばかわいく聞こえる。

暴行ではなくいじめと、窃盗ではなく万引きといっているように。

性犯罪ではなくいたずらといっているように。

 

なぜ働く場所で仕事に関係のない事で嫌な思いをしなければいけないのか。

それに抗えば「生意気だ」と言われ

周囲にもそんなことくらい我慢しなよ、自意識過剰じゃない?と言われ。

嫌な思いをした側がなぜ生意気なのか、我慢しなければいけないのか。

 

こういうことを言うと

「まぁねえ。でも大人ってそんなもんだからねえ」という態度の人もいる。

そういう言葉でそのままにしておいて本当に良いのだろうか。

汚さを許容してそのままにしておくのが大人なのだろうか。

それは大人ではないと思う。

理不尽に声をあげられる方が大人だと私は思う。

おかしいことにおかしいと言えるのが大人だと思う。

子供の見本を大人の背中で見せろというのならなおさらだ。

子供がいじめにあっているときに

「まぁでも人生色々だからね」と言って終わらせるのが

本当に正解だと思うのだろうか。

 

ハラスメントが話題にあがるようになり

生きにくい世の中になったという人もいるけれど

誰かを嫌な気分にさせることを面白いと思って口にする人の方がどうかしている。

 

「男女」の枠で話をするならば

女性の性被害について声をあげてくれる男性がいると心強いし

逆を言えば男性が性被害にあい声をあげた時に

女性である側が「男のくせに」などと言ったりしてはいけない。

どちらも同じ人間。傷つくことをされれば傷つく。

男女で壁を作って対立するのではなくて

互いが辛い立場にある時に先入観を捨てて

相手の話を親身に聞き声をあげられたらと思う。

 

私の言うことは綺麗事に聞こえるのかもしれない。

綺麗じゃないことをそのままにして知らぬふりするよりはマシだと思っている。

自分が思っている美しさを捨てたくはない。

 

理不尽なことに声をあげられない人を大人ではないと言っているのではない。

声をあげられない空気が作られているのだから仕方がない部分もあると思う。

「大人は空気読んで我慢して耐えていなさい」

「大人なんだからそんなことでいちいち事を荒立てないで」

傷ついた相手にそういう事を言って声を殺そうとする人が大人ではないと言っている。

それが大人だというなら私は大人に抗う側でいたい。