自分という表現を探究する。

例えば先ほどかいたブログの一例をあげると

零で発表するための音楽を現在は作っている。

 

色々な録音方法を試してみたが

一番しっくりきたのはMOTIVを使った1発録りだった。

 

弾いていると、弦が指に触れてびびった音がする。

歌っていると、出すべきところの音がでなかったりする。

今まではそれがある度に当然のようにやり直ししていた。

レコーディング現場でも確実にエンジニアさんから

「あーおしいね」とお互い言い合う場面になる。

私はその細かいニュアンスの探求にすごく時間をかけるタイプだった。

きっちり合わせて、かつ、ニュアンスもある、というような。

 

零でも、もちろん何回も録音し直している。

けれどそれは間違えないように、という録音ではない。

一番良い温度感の自分の瞬間を録音するために、という録音になっている。

だから、弦がびびっても声が出てない部分があっても

それも込みで、そしてそれ以外の部分の空気感がどうなのかで判断した。

おそらくはたからみたら「え、今の音出てなくない?」とか

「ノイズになってない?」と言われるような部分も

それが今の私には必要な自分の表現だと感じた。

 

なぜなら私は道のりの途中であり、ほとんど無知な人間であり

何も出来上がっていないような人間だから。

そういう人間が「間違いがないように綺麗にとる」というよりも

「この今の私という人間の歪さ、不完全さも込みで

それを自分で受容した世界観が正直に表れている音」

という視点で採用したいと思った。

 

今の自分を表現すること

そして自分という人間のするものづくりを探求すること

その中で自分も作品も変容していくこと

北極星のように指針とするものは愛だ。

 

つくるの先に祈るが存在している。

昨日眠る前に、制作脳から離れるために

キリスト教と仏教の共通点と違う点について見ていた。

大学時代にも宗教や思想史についての講義を受けていた。

 

読みながら、日本人だからなのかやはり仏教の方が自然と馴染みがあった。

求道、修行、自らを見つめていくところが仏教の一部だとすると

私が最近感じていることとすごく近しい気がした。

 

前から自分自身について内観したり探るのが好きだったけれど

ここ最近は「自分自身を探る」というフェーズから

「ものづくりの中にある自分」というものについての探求に移っているのを感じる。

 

 

メジャーにいた時に録音方法や歌唱などから学んだこともあるけれど

最近はそれを壊している段階に入ってる。

自分の中で得てきた王道のやり方や当然のあり方みたいなものを壊している。

「守破離」の「破」の部分を実践しているところなのかもしれない。

ここで自分を得ること以外に正道な道はない気がした。(これ頭痛が痛いって言ってる感じになるのかな・・)

 

そして最近ものづくりを毎日コツコツと続けてきてたどり着いた気持ちがある。

それは、どんなものだとしてもつくることは祈りと繋がっているということ。

今までそんなことは意識したこともなかった。

けれど全ての自分の行いが、自分かなにものかへの祈りの行為なのだと感じると

線を一本引くだけの行為に命が宿っている気がしてきた。

ものづくりはなんと神聖な時間なのだろうと感動した。

そうすると自分のものづくりががらっと形が変わるような感覚になった。

不思議と今までの自分の作った作品の色合いすら違う風な色合いで見えてきた。

 

そうか、ここで得た感覚はつくる時だけでなく

受け手の視点としても変わるようなものらしい。

ものをみる、つくるという視点が以前と確実に変わった。

 

今までは「それっぽい感じで」「良い感じで」そういう「感じ」があった。

それでも自分の心が震える感じ、掴まれる感じ、という直感だったのだけど

それよりももっと奥に、そしてより確信をつかんだような感覚がした。

線一本から味わうこと、命をそこから見つけること。

 

そうなると今まで自分が使ってこなかったタイトルを自然と採用したり

余白を嫌がってたキャンバスに思い切り余白を作ってそれをよしとしたり。

「それってこうしないとだめじゃない?」と

自分で自分に言い聞かせてた決まりをガラガラと壊していっている。

ものづくりはこんなに奥が深いもので面白いものだったのか、と改めて思った。

今までの自分のやり方や考え方から抜けるためには

とことんものづくりに集中することが必要だった。

そしてものづくりをしている間に不思議と自分に必要なインプットもやってきた。

それらを並行しながら混ざりあいながら新しい自分がむくむくと生まれてきた。

その先にどんな作品が待つのだろうか。

一生変容なのかもしれない。一生探究なのかもしれない。