力の使い方

人には人の乳酸菌。

ではなくて人には人それぞれの個性(強み・癖)を持っている。

強みや癖は使い方や場所を間違えれば弱み・悪癖になる。

 

先日、ポッドキャストで3月にレコ発イベントを主催する

つはるさんの受けた性暴力と、

性暴力の背景にある資本主義や家父長制から生じる支配欲について

私が思うところの話をした。

 

話しながら私は血が滾るのを感じた。

おかしいと思うもの、長年多くの人を苦しめ虐げてきたもの

人間という皮を被った奥にある思想と構造。

自分がその影響を受けていると気づかずに

コントロールされて加害する人もいる。

 

「それおかしいだろ!」と思うものを話すとき

私の血は滾るのを感じる。

生命力が増していくのを感じる。

怒りだが、その滾るさまにはどこか

幼さの暴走のようなものを自分に感じる。

 

おかしいものにたいするなぜなぜ坊やは子供の頃からあった。

弁が立つようになると矛盾をついたり途切れない議論をしたり

相手をじりじりと追い詰めていくことを快感に思う自分がいた。

昔付き合っていた恋人をずいぶんそれで苦しめたこともある。

私としては無自覚の暴走なのだが

それが相手にとっては恐れになっていた。

 

私は小さい頃から男性の持っている欲求に苦しめられたし

大人の持っている傲慢な感情の押し付けに苦しめられた。

これを恨み辛みのように心の底にもっている自分がいて

上の世代に対して、発展と自分たちの安寧ばかりで

下の世代以降が安寧するための行為を何もしてこなかったこと、

そのことに対する無関心さについて責めたい気持ちがある。

男性が無自覚にもっている欲求不満や不安を埋めようと

女性を消費しようとしているあり方を木っ端微塵にしたい気持ちがある。

 

しかしこれらは、私の場合は

幼い頃の「恐れと恨み」から発露するものなのだ。

恐れに支配されて動くことを避けたい。

 

私の好きな占いの中にこう書かれていたことがある。

「あなたがもつ溢れるほどの才能を発揮するために

何よりも教育が必要になるひと」と。

今ならその教育が何にあたるかがわかる。

 

幼い頃に根付いたものによる暴走は

野生の動物のように活き活きとしている。

正義でも悪でもない部分においてそれは美しい。

その美しさのある自分を否定しない。

 

けれど、それらにコントロールされてはいけない。

ハンドルを握らせ好き勝手させてはいけない。

主人はあくまでも大人になった今の私であるべきで

出すべき場所で幼い私を解き放たなければいけない。

そうしなければ、人を不用意に傷つけることになる。

自分も返り血を浴びることになる。

傷つけることも覚悟の場面以外では

鋭すぎる刃物は普段は締まっておかなければいけない。

 

そして自分(あなたも)が持っている力と欲求を

自分のためだけではなく

他の人のため世のためにどう使えるのかを考えて使うこと

そう心の芯から自然と思えることが

私に必要な教育だったのだと思う。

 

そういう意味では

私が出会って心を打たれた尊敬する人たちのおかげで

その背中があるおかげでここまで生きてこれたとも言える。

その人たちと出会わせてくれた何かの偶然という働きかけがあること

その流れに従って生きること。

 

自分の持っている力を正しく効果的に使う方法。