最近考えていること 無知と信仰

人はどれだけ曖昧にざっくりとした世界の中で生きているかということを、

最近考えたりします。

ほぼ全てのことが、思い込みと信仰で出来ているんじゃないかなと今思っています。

信仰という言葉には誤解も生まれやすいのですが、

「こうだと信じている」という事を、私の中では信仰だなと思うことにしています。

 

「Aちゃんが好き」な人は「Aちゃんが好き教」

「平和が好き」な人は「平和が好き教」

「バラエティが嫌い」な人は「バラエティが嫌い教」という具合に。

 

話しを戻して、人が衝突しやすい物事の話しも、

突き詰めて行くと、本当に物事の事実を知っている人はいないのではないか、

歴史ひとつにしても、その時代に存在していた訳ではなく、目で見ていた訳ではなく、

ましてや今の時代の感覚で生きている人間が昔の出来事を今の感覚で語るということ自体が、ずれを引き起こすのではないかなと思います。

となると、「自分はこうだと信じたい」という方向に、自然と寄って行ってしまうのではないか。

真の意味での客観性なんてものは、感情がある限りもてないのではないか。

「出来る限り客観視してみました」くらいなら出来るかもしれないけど。

だけど皆それぞれの美学や感性をもっていきているから、信じたい方に寄っていく。

それが悪いこととか良いことの話しではありません。

 

もっと簡単な話しだと、嫌いな芸能人も、

「こういっていたからそのときから嫌い」「こういう雰囲気が嫌い」

という発言もなかなかほんわかした意見で、

その嫌いな芸能人の生い立ちや、人生の上り坂下り坂を見て、

その人の事を芯から知ろうとしたときに、

「わかったけどでも雰囲気が嫌い」などをいえる人は

どれだけいるのだろうか。

 

大方の人がそのざっくりとしたイメージから、自分のなかで

「これはこうだ」「こいつはいや」「これは好き」というものが

決まっているのではないかなと思うと、

そこにある「これ」や「こいつ」の真実性というものは、かなり曖昧なものではないだろうか。

 

私は好きな音楽や好きな作家に関して、

「果たしてその好きなものやひとが犯罪を犯したとしても、人の道を外れていても、

それでも好きだといえるか」と自分に問いかけて、

「はい、何が起きても私は好きだといえます。例え人の道を外れても、

世界中の全てが嫌いだといわれ抹殺されようとも、私はその作品が好きです」

と胸をはって言えるものを好きだといいたい。これは私の美学。

 

そしてそれは信仰に似ている。

何かを信じている、信じたいという気持ち。

また、嫌いだという、好きだという気持ち。

 

だけどその物事を本当の本当に芯の部分まで突き詰めて考えているか、

突き詰めて勉強をし事実を知ったかといわれると、

そうだと言える物事はほとんどない。いや、全くない。

「わかりきる」なんてことは出来ない気がする。なにものにも。

だから昔の人は「神」を作ったのではないかな。

それを考えるようになってから、例えば時事問題を話していたとしても、

「それでも私はその問題について芯まで知っているわけではないのだ」

「それなのに漠然としたいくつかの情報を元に自分の感想を述べているにすぎない」

と心の中で思うようになりました。

私の大部分は未だ無知だ。好きな作家でさえ、その全てを知っている訳ではない。

 

そう考えると、人の感情というのは相当曖昧な出来事から成り立っているのだな。

と思います。

 

それを実感したうえでも、自分が信じたい、好きだといえるものはなにか。

自分を作り上げたものは何か。

 

また、自分が信じているものを誰かが信じていないといったときに、

「なんでお前は信じられないんだあほ!」というのではなく、

「自分は信じてる教であの人は信じてない教なのか」と思えることで

自分とは別の意見を許容していきたい、自分が無知で相手も無知だからこそ、

感情を優先して人と衝突することのむなしさを学びたい。

という、短気な私を落ち着ける考えのひとつなのであります。

 

あ、でも、私自身はそう思えないので思いたいのですが、

周りの人にたいしてはどうかといいますと、

どちらかというと私は

「あたいはこれを信じてるよ!信じられないやつなんてあほだね!」

と言える人の方が面白いなぁなんて思います。

「どっちの意見もわかる」という方が退屈で、

「どっちの意見もわかるけど、わかったうえで自分はこっちの意見だな」

という方でありたいなと思います。

 

そんな事を最近頭の中に浮かばせています。

いきなり長文で書きました。