素晴らしい行為に苦しまないように

先日見に行ったライブで、出演者のひとりが体調不良でお休みしていた。

ツイッターなどをしていると告知の部分に

「〇〇さんは喉の不調でお休みになりました」

というものをちょくちょく見かける。

ニュースでも、有名な歌手が喉の不調などでお休みしているのを見る。

もしかしたらそれだけ酷使している人が多いのかもしれないとも言い切れないが

私はこれを好意的な気持ちで見ている。

 

「いやいや、けしからん、わしの時代は親の死に目にも合わずにやったものだ!」

という人もいるかもしれないけれど

私はそういうの前から違和感に感じていた。

 

私の知人のミュージシャンが、ツイッターで怒りの投稿をしていて

自分の子供の幼稚園でのイベントがあるので仕事を断ったところ

「え、仕事選ばないの?」みたいなリアクションだったようで

二度とその人とは仕事をしない、自分は子供の方が大切だ、と言っていた。

私はその人の意見も好意的な気持ちで見ていた。

 

自分が自分の大切な人を公言する、嫌なことを公言することで

それに該当しない人は離れていき

自分に賛同した人と風通しの良い付き合いができる。

もう前のような、誰かが作り出した「普通はこうする」という生き方は

苦しいのでやめにしよう。

そういう世界が少しずつ出来上がっているのを感じる。

 

確かに、親の死に目に合わずに公演をするのは素晴らしいかもしれない。

子供も家庭も顧みずに仕事をするのは素晴らしいかもしれない。

それを立派だと思う人が一部の人の中にはいるかもしれない。

立派かもしれないけど、それってどうなの?と思う人も

きっと声に出さないだけで一部の中にいると思う。

 

親を大事にしたいから親を選んでもいいし

子供が大事だから子供を選ぶ時があってもいい。

その人が大事にしたいものを優先するのが当たり前になってほしいなと思う。

自分の発信をするのは勇気がいることなのだけれど

勇気がいるという時点で、それが許されない社会が今なのだと言える。

「自由ばかりでは協調性がなくなる!」という意見もありそうだけど

協調性や共同体というのは、縛り付けあったり足並みを揃えるよりも

もっと自分を自由に生きて自分の強みを互いに生かし合って

理想に向かっていく方がレベルの高い仕事ができると思う。

それは相手の考え方や力を信頼しあっているから。

縛り合わなければいけないというのは、幼さがある気がしている。

 

もう一点、私も気をつけているのだけど

ツイッターなどは自分の頑張った主張をしやすい。

その影に先日書いたような腐ってる時とか、全然ダメな時とかもあるけれど

意気込んだ方や意識が高い主張ばかりをしていると

それに該当しない人が見た時(たまたま心が折れそうな時とか)に

「あぁ、私はだめな人間だな。」と責めてしまうことがある。

「夢を追って生きてないからだめ」「前向きに生きられないからだめ」

だめなんて事は全くもってなく

心が折れそうな時はむしろ生きているだけでもめちゃくちゃ頑張っている状態

だと思っているから

そういう時はなるべく自分からSNSを見ないなどの

取捨選択をして心を守る方、大事にする方を優先してほしいなと思ったりする。

私の近くにも心が折れかけている時にSNSを見て精神をさらに追い詰めた人がいる。

ツイッターで書かれてることは、ただのその人のほんの一部にしかすぎない。

私のブログも思想や考え方が多いので

好きで見れてもたまにめんどくさいな、とか、なんかしんどいな、と思う時は

画面を閉じて自分を回復させる事に集中してほしい。

 

素晴らしいと賞賛されることは、大声になりがちだけど

それをみんなもそうしなきゃいけない!とならないように

それができない私はだめなの?と感じないように

自分の人生なのだから、自分の大事なものを優先した生き方をしていくことを

推奨したいし、私自身そうしていく選択をしていきたい。