「逃げたい」は「本来の場所に行きたい」ということ。

「逃げたい」と思う気持ち。

少し言葉の使い方に違和感を覚える。

逃げるのではなく本来の場所へ行こうとしているのではないか、と。

 

「逃げたい」という気持ちを内省して考える。

逃げたいと思う場所と自分が合わない理由が出てくる。

単純に考えて、合わない場所で力を出そうとするよりも

自分を発揮できる場所に行く方がいい。一度や二度が全てではない。

それは逃げではないと思う。自主的な移動。

 

とはいえ、場所を変えることが出来る場合と難しい場合は存在する。

私の場合、大人になった今では大抵の選択を自分でしていける。

失うものも離れるものもあるけれど

一つだけ注意しておきたいと思うのは、

何かを変えたいと思った時に必ず恐怖心と不安が現れる。

そこに注意深くなること。

今浮かんだ自分の気持ちは、不安からきた気持ちなのか。

それとも純粋な気持ちからきたものなのか。

不安と恐怖心はすぐに人を狐憑きのように取り巻いてしまう。

この感情がどんなものかを、意識してわかっていると少し生きやすくなる。

不安や恐怖心から来た選択肢は本当に自分が願う選択といつも少し離れている。

 

一方難しいのは子供の頃。子供は大変だ。特に小学校に入る前など。

自分の中に感じる違和感を言葉にする事さえも難しい。

この時期にも疑問を抱く子供はいる。私がそうだった。

けれどそれは大人にいっても理解されないし

自分自身でもうまく言語化できないので、漠然とした孤独に苛まれる。

大人の方がどれほど楽だろう、と大人になった今思う。

今の時代では、子供のために開かれたサポートの場も存在するかもしれない。

けれどそこで出会う大人がどういう人間かでも、明暗は別れるだろう。

ただ子供は命を終わらせずに耐えてほしい。

どんな絶望の時でも時間は止まらず流れている。

死ぬことは大人になってみてから考えてほしい。

君の周りに「大人は辛そうだし大変そう」という大人がいたとしても

それが全てではない。

「子供より大人の方が最高じゃん!」と思う大人だって

確実にいる。ひとりはここにいる。

 

大人は完璧ではないので

大人がもっともらしい事を言っていたとしても惑わされないでほしい。

いうことを取り入れるか取り入れないかは自分自身で自由にしていいということ。

大人も間違えることが沢山あるし、その場その場で何が正解かも変わるものだ。

誰かの意見が絶対ということはない。もちろん私のこの言葉も。

私にとって「今、これを伝えたい」と思うことを言っている。

「こんな考え方してもいいんだ」と思える人に伝えている。

「自分もそう思っていたけれどそう言ってくれる人がいなかった」と

思える人に伝えている。

子供の頃の私のような気持ちに近いものをもつ人間に伝えたい。

それ以外の人間には、伝わらなくても仕方がない。むしろ自然だ。

「私が正しさ」ではないから。

全ての人に頷いてもらえなくていい。

伝えたい人に届けたいから、その人に向けるために書いている。

これも私の考えで、それを選択して、ブログを書いている。

 

話を戻す。

自分で考える力を身につけ、自分で選択することが大切だ。

それは決して易しいことではないけれど

人生に対する充実感と責任感はそうじゃない時の比ではない。

 

ひと昔前では我慢が美徳、我慢を賛美する事が謳われてきた。

なぜこういう苦しみしか生まれないことが謳われるのか。

2つの意味があると私は考えている。

 

1つは、上の立場が下の立場に命令しやすい環境を作るため。

「苦労することは素晴らしいんだ」「我慢もいつかは報われる」

ということで労働者を過酷な環境でも働かせることができる見せ方をする

経営者側や人を使う側が下のものを使いやすくなる言葉。

 

2つは、そういう思いをさせられたことで、次の世代も苦しんでほしいという気持ち。

「俺らの時代はそんなもんじゃなかった」「これくらいの我慢は常識だ、甘えるな」

という気持ちは、自分の世代に許されなかったものが今許されていることに関して

「俺たちは損をしている、あいつらの得が許せない」という損得勘定から。

 

バブルが弾けてもなお経済的成長のレベルを下げまいと邁進したとしても

今までのような働き方では成長の数字としてもう表れないので

通用しないことがわかる。

「何も考えず、いう通りにして、馬車馬のように働くことが成長に繋がる」

こういう時代は終わった。

何も考えずにできることは、代わりにA.Iがやってくれる。

A.Iが社会に組み込まれることを、仕事を奪われると恐れる人もいる。

けれど誰でも出来る仕事をする必要がなくなることで

自分には何ができるのか、自分の得意はなんなのかを

真剣に考えることになるだろう。

自分のためになることが、社会のためにもなる仕事とはなんだろう。

こういう事を考えて実行できるのが良い社会のあり方だと思う。

自分を殺さないとお金がもらえないのは、不健全だ。

それではなんのために生きているのかがわからなくなる。

そこから逃げたいと、思わない方がどうかしている。

 

今まで、人の顔色や常識を気にしてやりたくもないことをやって

自分を生かしてきた人には、最初は苦しい時代になると思う。

けれど思考というのは何歳からでも身につけられ、鍛えられる。

人任せ、社会任せをやめる時代が来ている。

 

長くなった。まとめ。

何かから逃げたいと思うのは、甘えではない。むしろ苦しい。

自分の気持ちに嘘をついてない人だから表れた感情。

無視をしない方がいい。

逃げるというのではなく、本来の居場所へ戻ろうか、という気持ち。

「遠回りをして、随分違うところに来ちゃったな。

いろんな思いもしたし、そろそろ戻るかね」

 

でも次が最後ではない。失敗が許されないなんてことはない。

そこまで自分に期待をしなくていい。

ほんのちょっとの成功と失敗、ささやかな幸せと不幸せ。

それらを、言われたからやっているのではなく

自分が思ってやったことなのだとしたら

どんな小さな成功も、失敗も愛おしいものに変わる。

 

勇気のいることかもしれない。

そういう勇気のいること

みんなはどう勇気を持ち

どう自分を生きていっているのか

そういう人の姿をお伝えする場所を今後作っていきたい。