類友

昨日はメンバーとご飯を食べに行きました!

初めて食べに行くのでどんな感じになるのか

ちょっとドキドキ楽しみだったのですが

想像以上に楽しかった。居心地が良いなぁ。

マチズモ感もないし、誰も強制したりしないし

馬鹿にして笑うとかもないし平和なメンバー。

自分もこうありたいと思えるような人たちに

囲まれているのが健全だしそうしていきたいと思ってる。

類は友を呼ぶ説を結構信じているから

自分はどうありたくて、どういう人と一緒に生きていきていきたいか。

それに今なってるか、どうしたらそうなれるか

考えてそしてトライして生きたい。

そういう意識をもってるだけでも出会える人達が変わってくる気がする。

久しぶりに飲んだ日本酒。

自分を大切にすること

私も酔っ払っているので大概だが

隣の女性の足元も覚束ない具合に

私は酔いも覚める気分

ちゃんと帰れるのかい 君は

私に寄りかかるぶんには構わないけれど

その先が気になるのは

時代がそうさせるのだろうか

けれど私だけじゃないんだ

この問題を気にしているのは

女性だけじゃない

男性のなかにも

おかしいと思っている人が確かにいるんだよ

みんなが

男も女も関係なく

ありのままで思うことを言える社会になるように

私たちが出来ることがあるとおもうんだ

すごい人がするのを待つんじゃない

ごく普通の

私たちが声を挙げなければね

「その行動は自分に対して誇れるものなのか」

伊藤詩織さんのニュースを見ていて

ひとつどうしても違和感に思ったのは

山口敬之さんサイドが言っていた

「被害者が笑うのはおかしい」という内容の発言。

 

ここにも「普通」という呪いが出てくる。

普通、被害者は悲しんでいるものだ。

普通、被害者が発言する元気があるのはおかしい。

 

裁判はまだ続くし、断定的なことは言えないけれど

この発言はどうにも疑問に思ったし、憤りを覚えた。

 

そういう「普通はこうしない」という圧力によって

殺された声があまりにも多くあると思う。

 

日本は経済も発展した成熟した国ではあるけれど

強制性交の被害のわずか4%しか被害届が出されないという。

勇気を持って警察へ行っても、人形を使ったレイプの再現などをさせられ

セカンドレイプにも近いことがあるという。

傷を何度もえぐられたくないと行くことを躊躇するのも当然だろう。

 

BBCもワシントンポストも、中国や韓国のメディアでも報じられた。

こういう事が世界に拡散した時に

「日本が悪いと思われるだろう」「世界に恥をさらすな」という

愛国者を名乗る声が存在するけれど

私は日本を本当に愛しているのならば

日本にある問題には紳士に眼差しを向けるのが愛であり強さだと思う。

「臭いものに蓋をして、誇らしい所だけ世界に発信」というのは

違和感に思う。

どこの国もその国の問題はあるものなのだから

強がらず、もっと正直に誠実にあるべきだと思う。

 

セクハラについても、昨今はより敏感になっている。

今まで「仕方がない」「私さえ我慢していれば」と思っていた気持ちに

光が当たるようになってきた。

 

「どこからセクハラになるかわからないから怖い」という人もいるけれど

仕事をする上でそれと関係のない発言をしなければいいのだと思う。

立ち入ったこと、失礼なことをせずに、仕事に集中する。

そもそも相手に対して何が失礼にあたるか、という事を意識せずに

好き勝手話しているとデリカシーのない人間になる。

人間は誰しも心があるのだから、

相手と会話をする時は礼儀や距離感を保っていたい。

 

少し前の世代の中には「下の人間を馬鹿にして笑う」「からかいも愛情」という事が

コミュニケーションとされていたけれど

これも今の時代では通用しないことだ。

年下年上、男性女性、上司も部下も関係なく

ひとりの人間として尊厳が踏みにじられることを良しとしない。

そんな時代に少しずつでもなってきたかと思うと希望を感じる。

 

けれどそんな時代になってきたのは

勇気を出しておかしいことをおかしいと声をあげた人たちがいるからこそ。

だからこそ勇気を出した人の声には誠実に耳を傾けたい。

 

「確かにおかしい!」

「いや。そんなにおかしくなくない?」

声をあげると、色んな賛否がわくけれど

問題が浮上し、それを知ることで個々人が考えるきっかけができる。

それが大事なことなのだと思う。

 

一方で、男性が女性から暴力やセクハラを受けているという声は

まだほとんどあがっていない。けれどそれも確実に存在している。

 

「男のくせに」と笑われたり信じてもらえないことが声をあげづらい一因だという。

 

性的な問題は男性から女性、ということばかり取り上げられがちだけれど

その中でまだ隠された声が多く存在するということを忘れたくない。

私は女性として、男性に対して失礼な言動をしないように意識したいし

「こういう女性の発言に傷つく」という声には積極的に耳を傾けたい。

「知る」ということが大事なことだ。

他人のことは、知ろうとしなければ知ることはできない。

自分が傷つかない選択を優先し始めると、

周りの人も傷つかずにいられる環境にしたいと思えるようになる。

そのためには知ること、伝えることが大切だ。

 

自分の立場を利用して断りづらい相手に性的な気持ちを持つことは

人間のずるさ、弱さとして断ち切ることは難しいかもしれない。

そういうずるさや弱さを持つ人もいるだろうから。

 

けれどそれを実際に行動に移して相手を傷つけることは

断じて許されることではないし

その行いをする事を恥だと思える人が増えることを願う。

 

「その行動は自分に対して誇れるものなのか」

そう自問してほしいし

私自身もそうしたい。

後悔はむしろ使える

後悔とはなんだろう。

失敗した、間違えたっと思う行動をしたことが主だろうか。

 

後悔の影響は

・自信が削がれる

・自分が嫌いになる

・嫌な出来事が反芻されてネガティブになる

などがあるだろう。

 

その影響を受けていると

「自分のあり方に自信がなくなる→自己決定ができなくなる→

後ろ向きになる→動けない→ずっと現状の自分でいることになる」

などだろうか。苦しい状況である。

 

後悔をしてそれに苦しめられている人に伝えたい。

後悔はむしろ使って、人生をよくできる。

後悔はむしろない人の方がやばい。

 

なぜ使えるかというと

後悔したという「事実」や「体験」があって

その事実から学び、その先の人生で応用できるから。

 

ここでは私がした後悔との向き合い方、使い方を書きたい。

 

後悔のひとつをあげると。

「会社に所属していた時に思った動きが全然できなかったこと」

 

不安や自信のなさがあって動きが硬く小さくなり、結果が出せなかった。

せっかくの機会を使えるものを使えなかった悔しさ

自分の役割を果たせなかったことへの恥ずかしさ→後悔

 

この後悔を目の前のテーブルに置いて

私が感じたことの話をしよう。

 

・いきなり人が沢山増えたからわからなくなっても仕方がない(自分へのフォロー)

・大事なのは自分が何をしたいかで、世間の答えに合わせることではない(自分の性格を振り返って再度自分の傾向を知る)

・そもそも音楽が伸び悩むというのは、

会社側にも結果や答えが出せていないということ。

・結果が出ずに身動きも狭まる場所、

会社が大きいほどに変化が難しい所にいるより

会社に属している人がすぐに変化できない事を

むしろ自分が自由な状況下で

どんどんやっていった方が面白いのではないか。(現状の世界の認識と自分の立場からできる行動)

などが出てきた。

 

そしてどんなに主張したって、変化を求めたって結局会社は経営者のもの。

そこに属するという事は、その事実を避けて通れない=今の時代では恐ろしい。

大きい企業が安心という時代

企業に守られる時代は終わった。むしろこの先はリスクになる気さえする。

 

ーそれなら私はどんな内容が理想だろう(仕事のあり方)

少数精鋭でものづくりの密度を濃くする。

利益も還元しあい、お金がない時はアイディアや技術を提供しあって助けあう。

誰も無駄な時間や犠牲を出さないあり方。

 

ーそれなら私はどんな内容が理想だろう(音楽の内容)

1.

会社から担当をつけられると、その人が普通のサラリーマン的思考な場合がほとんど。

私の音楽性は普通や常識の外にいる人の声を表現したり

背中を押したり戦うものとして存在したい。時代はそれを必要としている。

本当の事を言おうとすれば、内容も過激なものは避けられない。

その時に常識的な物差しや無難さをもってこられるのは邪魔になる。

作品のエネルギーが中途半端になる。

 

2.

現代は音楽があふれかえり、好みの音楽をAIが探し提供してくれる時代。

それをポジティブに受け取れば、ピンポイントで必要としている人に届く音楽を

誠実に作ることがそれを必要としている人に確実に届き、広がるチャンス。

逆に言えば万人の人に受ける音楽、賛否両論のない音楽というのは

存在価値があまりなくなる。

 

結果

後悔した出来事から

「当時の環境を今の自分が俯瞰してみる」

「自分の元々の性格の特徴を再度考える」ことができ

さらに世界的な音楽の状況や情報の流れについて鑑みて

そこから自分の行くべき方向性を示すことができた。

 

・私は性格的に一般論の範囲内で決められた流れに従うやり方が向かない。

・私はもっと挑戦、新しいことをすることにわくわくを感じる。

→だからあの時の迷走はある意味自分の中で正常な反応だったのだ、と理解。

・時代はさらに速度が増すから、動きの取りやすい少数精鋭で行動。

・大きな会社と組む場合も、お互いのリスクにならないように単発のプロジェクトのみ手を取り合う。

→時代感+自分の性格の特徴から、この先の動き方を決める。

 

 

こうして、自分に起こった後悔の内容から

自分の性格の特徴を実際に文字にあげて明確にさせていくと

問題は思った以上にシンプルで解決しやすかったりする。

頭の中で悶々と嫌だったことを広げていると

それは霧のように掴めない状況なので解決しづらい。

 

何が嫌か好きかを意識して生きていない、言語化していない人は

「なんだかわからないけど人生がつまらない」「モヤモヤする」

「いつも楽しくない」という傾向に陥りやすくなる。

自分の人生を動かすリーダーはあなたなのだから

自分について集中して生きることはナルシズムにはならない。

自分の意思で生きるためには当然のことだ。

もっともっと自分に興味を持とう。

 

いちいち自分の気持ちを観察する、傾向を知ろうとするだけでも

自分にあった生き方が見えやすくなってくるように思う。

大事なのは後悔を霧のようにただ蔓延させるのではなく

淡々と冷静な目で過去と今を見つめ、言語化してみること。

過去の自分を責めず、かわいい後輩をみるような眼差しで。

 

何度も失敗を重ねて、その度に改良をしていく。

人生が続く限り、何度でもやり直せる。

後悔を改良のための材料として、

自分の人生を幸せにするために使ってほしい。

コバンザメみたいな生き方はださい。

昔、

自分はこんな人に気に入られている

自分はこんなすごい繋がりがある

という話ばかりする人がいて

私はへえ〜そうなんだぁと思いながら

だっせぇとも思った。

だってその人お前じゃないじゃん。

すごいのはその人でお前さんじゃないじゃん。

私はこういう威を借る人を見ると

恥ずかしさを覚える。

しかしこういう人は結構多い。

SNSで誰と仲が良いとか

ライブのゲストパスを見せつけたり

有名な人に会ってきたとか

嬉しいのはわかるけど

自分自身が影響力のない人間だというのを

自ら露呈させてるだけのような気がするのだけど

それを知ってか知らずか

嬉々としている様が恥ずかしい。

自分の経歴などを謙遜しろと言ってるのではない。

自分が行ってきた事は謙遜も誇大もせず

経歴としてただ前に出せばいいと思う。

「権力や名前の知れてる人と知り合いの自分」

ではなく

あなた自身が何者であり

今から先に何を成そうとして生きてるのか

そっちの方が私は興味があるし

どんな意思や理想を持っているかに

経歴や権力なんて関係ないのだから

自分を低く見ずに

名前のあるものに媚びずに

自分を生きてほしいな

と勝手に私は思ったりする。

コバンザメみたいな生き方はださい。

私だって名前も権力もないけれど

大切なのはそこじゃないだろう。

どう生きていくか

がいつも大切だと私は思っている。

完璧じゃなくていい。

パソコンを使った作業をするために

電源のある喫茶店に行こうと思い検索していると

2017年の記事で「なんとここの喫茶店は1つのフロアに

電源が20個もあります!!!」というのが

上位2つ目くらいに出てきて。

それを見て思ったのが

「最近の喫茶店やファミレスは

1つの席に1つ電源が置いてあることも結構あるから、

1フロアで20個でもそんなに驚く事じゃないな」

と思った。

 

話は少し変わり、

HPを作成して困った時に検索すると

2018年の記事で

「これはこのボタンを押すといい!!」というようなことが

書かれており

それを探したのだが、それがどこにもない。

実際はそのあとにアップデートされていて

そのボタンはもう別のものに変わっていた、というオチだった。

 

この2つの体験をして思ったのが

「もう1、2年前の情報は古いのか」

ということ。

よく「思い付いたことはすぐやれ!」という言葉があるけれど

そのことを本当に実感する。

「いや、ちゃんと整えてから」「まだこれが足りないから」と

言っているうちに整った時にはもう遅い、となっている。

 

現在はアプリが良い例だけれど

最初に出したものが完成ではなく

「出した後でユーザーの声などを聞いてから

アップデートをしていく」というのが基本になっている。

そう考えると、アップデートがありきだからと思えば

最初から完璧じゃなくてもいい、と思える。

これがアップデートではなくて成長や改善とも言い換えられる。

やっていれば成長するのだから

成長したあとに出さなくてもいい。

成長した時はした時で、また別の改善点が出てくるから

「何かを完璧にしてからだす」というのはこの時代には

あまりマッチしていないのかもしれないな、と感じた。

 

風のように軽やかな動き方をしていった方がいいのかもしれない。

「しなやかさ」というのはどういうことかというと

鉄のような強いものというのは

固すぎるのでそれに勝る強さのものがぶつかった時に折れてしまう。

しなやかさは強い意志をもちながらも

それに執着することなく、柔軟に対応できることだと私は思っている。

立ち向かうだけではなく、

時には逃げたり避けたりする感覚も

選択肢の中にいれて動けること。

想定外も失敗の可能性もいれた上で動くこと。

もちろん、中途半端で力が抜けていてもいいとはならず

ある程度のブランディングや方角をどうしていくかなどは

定めた上での話になるのだけど。

しなやかさが大事な時代だと感じる。

 

私は完璧主義で鉄のような人間と言われいたし

その自覚もあったので

「まだだ、私はまだまだだ。。まだなんだ」と思って過ごしてたけど

それを言ってるうちに日が暮れるわ!と自分にツッコミが入り

「やりつつもだしつつも」を心がけて生きる形に変えたら

なかなか風通しの良い体感がしている。

私の中に「ちゃんとやりたい」という気持ちと

「そっこーでやりたい」という気持ちが同居しているので

今はそっこーモードに7くらいの軸を置きつつも

ちゃんとモードを3くらいの割合で使って生きていく

という感覚で生きています。

アディオス。

不眠症の改善。

実家にいる時は眠れない時が結構あった。

毎日眠剤に頼る事もあった。

最近はライブ前や確実に早く寝る必要のある日だけ飲んでいる。

眠る前に自分でできるヒーリングをしてから寝るのだけど

最近は途中で夢の世界に入っていることがほとんどだ。

眠れないと悩んだ日がここ数ヶ月一日もない。

 

一つは自分にあうルーティーンを見つけたから。

昔からルーティーンは決めたりしていたのだが

それが自分に合わずに途中でなくなってまた元に戻ったり

そしてまた始めて途中でぼんやりしてなくなる…みたいな

繰り返しだった。

 

最近は自分に合うルーティーンを少しずつ変化させながら見つけた。

フリーで働いている人はやはり自分にあったルーティーンを

見つけることをおすすめする。

私の場合は満足感を朝のうちに自分に与えること。

具体的にいうと、朝起きてから最初に大事なことをすませる。

前は夕方や夜にやっていたことを、起きてすぐにすませる。

起きたてほやほやの脳みそをそこに集中させる。

これがかなり効果的だった。

脳みそが疲れていないのではかどる。

そしてはかどって終わるので満足感が一日の早い時点で高まっている。

満足感が高まるので精神の安定性にも繋がる。

 

最初に大きなイベントを終えることで

その後に夕飯の買い出しや料理なども余裕を持ってできる。

私は朝の作業の後に買い出しの途中に喫茶店で作業をしたり

夜ご飯食べたあとに作業をしている。

そして夜の作業がひと段落した後に、明日の準備にかかる。

夜になると、明日がもう始まってるような感覚で過ごす。

明日やること、準備すること、時間の計算をしてメモに書き出す。

そして余裕のある時は部屋の掃除を少しする。

お布団についたら機内モードにして通知はこないようにする日が多い。

ちなみに朝にメインの作業をしている時も携帯は見ないことが多い。

なるべく気を散らかすのを防ぐようにしている。

そして夜は明日やることが意識に入っているので

そのためにも寝よう、という気持ちになる。

 

もう一つは意識して歩くようにしている。

後は駅でも階段をのぼるようにしている。

車で行く近場のスーパーも最近はなるべく徒歩でいくようにしている。

下半身の筋肉を衰えさせないようにしているのと

あと気分転換の意味も兼ねて歩いている。

作業→歩き→喫茶店で作業

みたいに間に挟む。そうしないと一日座ることになるから。

 

30になると体の衰えがすごいよ!と脅されていたけれど

私はむしろ20代の時よりも体が元気になった。

今までが動かなすぎただけかもしれないけれど。。

だもんで無理のないルーティーンを設定することと

歩く、その2つで眠るのがかなり楽になった。

 

恐怖は妄想

リスクを避ける事を一番に考える人がいるけれど

どの道を選んでも

その道なりのリスクは背負う事になる

避けるべきはリスクか無難さか

勇気が必要な時に

その勇気を行使できるように

シラフな思考を保ち続けたい

安全と安心から新しいものは生まれない

この人生が一度きりなら

自分で選びたくて選んだ道だと言いたいよな

安全と心中する気はない

利用される側であれ。

何かを始めると必ず反省がその次にくる。

ああした方がよかったな

これじゃちょっと甘かったな

それは始めたから体感として認識できたこと。

人から「こうしたほうがいいよ」といわれるよりも

実感が伴う分

何かを始めたあとにくる反省は貴重だ。重さが違う。

想像していた事とやってみたら違っていた

ということも沢山ある。

だからさっさとやってみるというのは大事だ。

 

悩み事を聞いていると

大半が悩んでいるのではなく勇気がでないだけのような気がする。

怖いから勇気がでないからやれない。

でも人の失敗した姿を見ても(やばい失敗は置いといて)

そこまで深刻に感じたりしない。人ごとだから。

でも自分の事になるとどうしても過保護になって動きが鈍る。

傷つかない道ばかりを選んだ方が結果的にダメージがくる場合も

結構あるような気がする。

なぜかというとそのダメージは「後悔というダメージ」

だからだ。

やっちまった失敗のダメージの方が(やばい失敗は置いといて)

広い視野で見た時に、どちらが良いかでみると

やっちまった失敗の方が、体験談としてネタにもできるし

失敗はしたが「やった人間側」に入るので

失敗しても得られるものはあると思う。

 

「何を言ったか」より「誰が言ったか」が大事

というのはよく言われるけれど

私の場合はその「誰が」をどんな誰がに重きをおくかというと

受信者側ではなく発信者側であること

自分から何かを始めた人間であること

そしてそれが継続中であるということ

というものに重きを置いている。

 

私の現在の視点からすると

メジャーというシステムに乗っかっているよりも

そこから外れた場所で動きを始め、作っている人

の方に興味を持つ。

自分もそっち側の人間になりたいと思っている。

 

大きな会社はシステムが出来上がっている。

本当に大変で価値のあるのは

そのシステムを作った人間だ。そしてその数は限られている。

自分が始める、自分が動かす。

こういう自分ごとの自覚を持って生きている人が好きだけれど

けれど勇気が出なくてくすぶっていた時期が

私はトータルで10年近くあったので

そういう時期はそういう時期があったというネタにもなるから

どのみち無駄なものはないと思うし

勇気がでない、不安だからといって

そんな自分を下にみる必要もないと思う。

大事なのはそのうえでどういう選択をしていくか。

新コンテンツと活動について

noteというサイトがクリエイターのためのSNSという事で

文章や音楽や動画が載せられるということで

今後そちらも活用していきたいと思ってます。

 

「シ組」ではシギの音楽の他に

オンラインサロンのようにイベントを開催したり

ワンマンライブやレコーディング体験もできる場所にしていく予定ですが

シギの音楽のみのコンテンツが欲しい方向けに

noteで音楽のみのコンテンツの場所を作ろうと思いました。

まだ審査が通っていないので少し先になるかもしれませんが

通った場合には別で詳細のお知らせをあげます。

 

音楽のみのコンテンツの方では

デモ楽曲の他にも毎回のライブ音源、音声エッセイをあげる予定です。

イベントの参加や動画配信を見たい方はシ組に参加して頂き

音楽のみ楽しみたい方はnoteのコンテンツに参加して頂き

それぞれの楽しみ方を選べるようにしました。

そしてどちらも楽しみたい太っ腹な方や

シギの活動自体をサポートしてくれる方がどちらも参加してくださるのは

とてもありがたいです。

 

サポートを…と書きましたが

今後私の音楽ももちろんそうですが

シ組でも活動自体を拡大させていきたいと思っています。

ボランティアで人に動いてもらうことをなくすためにも

自分の活動で生まれたお金をエンジニアさんやミュージシャンに

きちんと回していける環境を作っていきたいと思ってます。

そしてさらに新しい挑戦をしていくために

自分を生きたいと願う人に届けるために役立てていきたいと思ってます。

そのため、シギの音楽や考え方に賛同してくれる方のサポートは

とても心強くありがたいものです。

本当にありがとうございます。

その言葉をお届けしたく今日のブログを書きました!

色々な活動が広がっていくと思いますが

今後とも宜しくお願いいたします!