自分が納得する方へ。

しょへすんとものづくりの話をしていた時。

私がびくびくわくわくしながら3枚の絵を描いてみて

色々思ったことの話をした。

 

「この筆はどういうのを買えばいいのだろう」

「やり方が書いてるサイトを見たら素材の混ぜ方が難しそうだった」

のような絵を描く上で調べたりして思ったこと。

 

するとしょへすんは

「自分が美しいと思うものを作ればいい。

ルールに縛られてると面白いものは作れない」と言っていて

それが心に響いた。確かにな〜と思った。

 

自分の中でやりたいと思ったことが出たときに

ちゃんと想像したようにやれるよう調べたりするんだけど

それって「失敗しないように」感が気づかない間に出てきて

他人が言ってるルールにガチガチになったりして

最終的に思ったより楽しくないに繋がったりする。

 

そして私が胸を打たれるのも

ルールからはみ出た所にあるその人の味や臭いの部分だしなぁ

なんて事を気づかせてもらった。

 

 

私としょへすんは、居心地が良い関係と言われたらそんなことはない。

喧嘩もよくするし、性格も正反対な部分が多い。

 

 

最近の生活では自分に合わないものや

違和感に思うものは排除してすっきりさせているのだけれど

それでもなぜ私が居心地が良いと言えないしょへすんといるかというと

それが「ストレス」でもあるけど見方を変えると「刺激」だからだ。

 

信頼や尊敬してない相手に私はすぐ「うるへー(鼻ほじほじ)」で終わらせるけれど

しょへすんとは喧嘩したりこいつめんどくせー(多分向こうも思ってる)と思っても

片方では「私では見えてない私の部分を見ているから言ってるんだろうな」と思える。

それは付き合いの長さもあるし腹わってる数もあるし相手のする事への尊敬もある。

 

 

ここで公開したいくらいなのだけど、昨日しょへすんから

昔描いた絵を見せてもらった。すごくラフに楽に描いたものらしい。

私はそれを見て「すげー!すげーよしょへすんかっこいいじゃんこの絵!」と思った。

けれどその絵を「精神的に問題がある人が描いた絵みたい。怖い」という人もいるそうだ。

でも私にはすごいかっこいいしTシャツにあったら着たい!と純粋に感じた。

 

ものづくりって、生き方と同じで正解は本当にないんだなと思う。

その人なりの流儀や美学はあれど、それもその人の思う正解であって

その人も自分の中の正解を壊す日がきたりもする。

そう考えると流動的なんだ。時代によっても正解は変わるように。

だから何かのルールややり方で自分をがんじがらめにするより

自分の中の美しさに正直に生きる方が

それを素敵だねって言ってくれる人に出会える。

生きることが表現なのだとしたら

自分が美しい、そして面白いと思えるものを作り上げていきたい。

 

 

 

そして大体ドラマで描かれるような

チームや相棒ってみんなそれぞれ性格が違うことが多いなと気づいた。

だからこそいろんな角度から見あい、協力しあい、解決に導けるのか。

他人同士が一緒にいる醍醐味ってそういう部分でもあるな。

自分ひとりではできないことだし

似たような価値観で自分に無害な人間だけを揃えているより

見えないものが見えたりする。

 

 

 

正反対が面白いと思える人とも付き合いながら

それ以外の人間関係では無害をなるべく選択しようとか

そうやって自分の中の人間関係のバランスを作っていっている。

偏りすぎない自分の中での配合というかバランス感覚は

どの辺が望ましいものなのかを体感しながら生活している。

 

「自分で決めた」っていうことを大事にしている。

自分で決めたから人のせいにしないし、嫌だったら決め直せばいい。

「自分の意思でやっているんだ」という責任感に近い気持ちを

前以上にしっかり持つようにしている。

 

ものづくりだけではない

生活も人間関係も自分が作っていくものなのだ。

生きることそのものが自分の表現だ。

それはシンガーソングライターも、サラリーマンも、バイトも、

学生も、専業主婦も、そういう肩書きに関係なく

誰もがその人の人生はその人の作品だ。

 

それが今は失敗している、ずっとうまくいっていない

苦しくてしょうがない。

そういう暗澹とした色合いでさえも

なんの当たり障りのない作品よりも

私の目には美しく見える。

 

暗澹とした色合いの中に混ぜる一色の白い絵の具は

一番綺麗な眩しさとして光るだろう。

暗澹とした色合いが意図せずしてそうなったなら

白い絵の具は君の手で描くんだ。

 

だから今自分がうまくやれていない、

人間関係もだめだったとしても責める必要はなくて

生きている限り

私もあなたも自分の人生という作品は

重ね塗りして深みを出したり修正していけるものだ。

私はそう思っている。