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オカシオ=コルテス議員は、ヨーホー下院議員に
「このビッチ」と言われたことを受け演説を行なった。
その言葉たちにとても胸を打たれた。
上記のURLは日本語に訳されたものなのでお時間ある方はぜひ。
彼女はこう訴えた。
「今回のヨーホー議員の発言は
セクハラを軽んじる文化、
暴力や暴言を許容する文化、
それを良しとする社会権力構造の問題がある事を公にしてくれた。
これは今に始まったことではない。
子供がいること、嫁がいることは立派な男性という証拠にならない。
尊敬と品位を持って他人と接する人が立派な男性なのです。」
彼女の演説は、自分が侮辱されたという怒りよりももっと大きいこと
今まで、そして現在も続いている人を侮辱しても良い社会について
理路整然と言葉にして語っている。
それによって今まで仕方がないと諦めて声をあげなかった女性の代弁として
多くの人の心を揺さぶるものだったと思う。
「ヒステリックな女は更年期。もしくは生理中?」
「女は黙ってる方が利口だ」「本当の被害者は声を出せないもの」
こういう言葉はそんなに珍しいものではない。
「黙ってる方が賢い」というのはかっこいい言葉として使われることも多い。
男性もそうだろう。
「男が泣き言なんて情けない」
「男は背中で語るもの(これはさらに古いけど。笑)」
「男、女はこうあるもの」「こういう言動ははしたなく情けない」という謳い文句が
人々の口を塞いできた。
フェミニストの中には、怒り狂っている人がいる。
確かに怒り狂っている人に人はなかなか耳を傾けたい気にはならない。
「フェミニスト=ヒステリック」とみられることもあり
「私はフェミニストではないんですが・・」とわざわざ前置きとして
自分はあのようなヒステリックな人ではないが、と断りを入れる言葉も見かける。
しかしなぜ、彼女達は怒っているのだろうか。
なんの理由もなく人は怒ったりはしない。
彼女達が「被害にあった悔しさ悲しさ」に怒っていることもあるけれど
彼女達がその事を告白すればするほど
通りすがりの第三者から
「あなたにも悪いところがあったのでは?」「証拠をだせよ」と
何人もの人から疑いの気持ちで目を向けられ(しかもその人たちははなから彼女達を否定する気持ちで質問をしている。)
心無い言葉をぶつけられる。
そんなことが続いていたら、それは怒るだろう。
そんな彼女達に対してさらに
「怒ってたって伝わらないよ、伝えたいなら言い方があるでしょ」というのは、
あまりにも酷なことではないだろうか。
私は、彼女達が怒るに至った理由を知ってからは
どんなにキレている人がいたとしても
その言葉を真摯に聞かなくては、と思うようになった。
ポッとでの他人である私にできることは
なるべく自分の先入観や偏見を捨てて、
訴えている人の言葉を真摯に受け止めることだ。
「聞いてやる」ではない。
「聞かせてくれてありがとう」だ。
辛い経験を、同じような目にあう人を少なくしたいという気持ちから
話す人もいる。
それは被害にあった人の問題ではない。
社会を構成する全ての人にとっての問題だ。
そして私は言葉を扱う人間だ。
言葉はさっきのように、人の口を塞ぎかねない。
かっこよさそうな言葉が、実は人の自由を侵害している可能性がある。
そんなことをよくよく自分に突きつけた。
悪気がなく人を傷つけてしまうことは
生きていると沢山ある。
だから、何をしたら人が傷つき悲しむのか
彼女達のように訴えてくれている人から学ぶしかない。
告白してくれる人がいるというのは、それだけ貴重で
ありがたいことなのだ。
誰もがみようとしない事実を突きつけたいという願望が
私の中には存在していたけれど
それが私ひとりよがりで
それが誰のことも幸せにしないのなら
そんな事実の告白などいらない。
誰かが苦しんだり傷ついたりしていることを
または誰かの自由が侵害されていることを
告げるための事実の告白でなければ、と私自身に思った。
私も、私以外の誰かも、幸せに生きていけるために
これが私の人生だと言えるような道を歩むために
私は歌おう。
全ての人に、自分の言葉を話す権利がある。
自分の意思を持ち、それを語る権利がある。
年齢、性別、国籍を問わない。
全ての人間になければならない。
それは守らなければ、簡単に侵害され利用される可能性がある。
実際に侵害されていることがこの世界には沢山ある。
人の自由と幸せを想い祈ろう。
そして私は歌おう。