「そんな人間と関わるのは時間の無駄だよ」
私はそう友人に言いながら
「しかし果たして無駄とはなんだろうか」と
自分に対して思った。
「無駄を削いで必要に突き進む。人生は限られているために。」
思いやりがあって社会に適用しようとしすぎる多くの人にとって
こういう言葉は必要なように思う。
生産性という言葉も溢れている。
自分の成すべきこと、野望、使命、のためにただ走り続ける。
これもまた、本人が望む所ならそれは幸せな人生だ。
私もまた自分をがんじがらめにし
やるべきことのために命を使うのだ、と力むことが多かった。
力みながら、心ではぜえぜえ、息が苦しくなっていた。
誰にもそれを望まれてるわけでもないのに、楽ができなかった。
数年前に私が自分を振り返る要因になったのはしょへの一言が大きい。
「頑張ればいいってもんじゃない」という言葉。
頑張れば報われる、大変だったらやってる証。
そういう日本人あるあるの根性論的な美徳が私の中にもあったので
頑張ったって報われるものではないという事実は
私の中にぐさっと突き刺さった。
頑張るというのは、現実を見ないようにしているという側面も
実はある。
そのままの自分でいる事に限界を感じて、そこから一年内省した。
そして少しずつ自分と向き合い、内省しながらの体験も通し
3年近くたっただろうか。
今年はもっと素の自分と出会っていき
その自分が望むことをかなえていってみよう。
努力とか、野望とか、そういう所ではなくて。
そう思いながら遊ぶように生きている。
遊ぶように生きていると、
誰からも頼まれていないのに色々な決まりごとを
自分に押し付けていた事に気がつく。
そしてそれにがんじがらめになってたから心が動きづらかった。
それは私のような人間ではなくてもよく聞く言葉ではこういうものがあると思う。
「家族がいるから」「周りがこう言うから」「これしか自分にはないから」
「私には才能がないから」「私はもうこんな年齢だから」
そう言って「だから私はこうあらねばならない」と自分に釘を打つ。
釘が刺されているので、自由な動きができない。
自分が自分を許さない。
それでも、その状態の自分に満足しているのならば良いのだ。
私は自分にしていた決まりごとで自分が苦しくなっていた。
それを遊ぶように生きてみてからよくよく気がついた。
その渦中にいる時はわからないことだった、それが自然すぎて。
薄い鎧のようなものを自分につけさせていた。
「そんなやつと関わる時間が無駄だよ」そういう自分の声に疑問に思ったのは
「無駄なことをする時間があったっていいのでは」と
もうひとりの自分が言ったから。
全てが「こんなはずではない」と思いながら生きているのならまだしも
自分の人生を自分が作っている時に
無駄だと思いながらする事に発見があるかもしれない
寄り道だと思いながら寄り道をする事に発見があるかもしれない
そう思えた。
過去の私に言いたいのは
自分の力がでるのは、案外力んでいない、リラックスしている時だ。
頑張らないと結果がでない、なんてこともない。
頑張らないと自分はよくない、なんてこともない。
でもだからといって、リラックスしていないといけないわけでもない。
力みたい時に思いっきり力むことも楽しい。緩急があった方が面白い。
思いっきりがむしゃらになるのもいい。イキリまくるのもいい。
ダイナミックになるのはなんでも面白い。
小さく、ちゃんとした、良いこで、いようとしなくていい。
そうはなれないのだから、息が苦しくなる。
そうはなれないのだから、そうなる必要もない。
だから冒頭の言葉は少し変えよう。
「そんな人間と関わるの無駄だけど、面白いならいいんじゃん?」と。
趣味も、音楽も、無駄と言われれば無駄なのだ。
料理の飾り付けも、細かい味付けも無駄だと言われれば無駄だ。
なんだってそうだ。命も無駄だと思う人もいるかもしれない。
かといって必要なものばかりをして生きていくのは
それもいいと思う人もいるだろう。
今の私は、それよりも面白い色付けをしてみたいと思う。
ちょうど絵を描いている時に
青できたけれど、ここで少しだけ黄色を足したらどうかな?
と思って付け足すようなもの。
案外そのポイントが生きたりする。
7割は自分の意思でやる。けど3割は偶然を面白がりたい。
今の私はそんな感じ。