ここ数年、ほぼ毎日何かしらの予定が入っていたのだけど
今年に入ってスケジュールが真っ白。
真っ白な毎日で何をしているかというと
シギとシ組を行うにあたって本当にやる必要があると思う事を
勉強したり、組み立てたり、実践したり、をしている。
その合間にご飯を買い出して作って食べて部屋の掃除をして、など。
それ以外はシギとシ組に集中している。
毎日入っていた予定が真っ白になるということは
それだけ断る案件が増えているということで
今まで色々受け入れてきた分、断るのは心も痛むし、連絡をするのがしんどい。
別に相手や物事が嫌いになった訳ではないから。
それでも私が何かを選び何かを捨てるという選択をすることで
「あいつ変わったよな、のり悪くなったよね」
「なんか嫌われちゃったのかな」など
裏で思われたり言われたりする事は必ずあると思う。
けれどそれを気にする時もあるけれど
気にしてたらきりがないし自分ができることをしようという意識に持って行く。
アドラーの嫌われる勇気というタイトルが身にしみるけれど
自分を生きていくということは、
何かを捨てたり
誰かにとって煙たい存在になったり後ろ指をさされたりする
そういうものを避けることはできない。
そういうものを承知した上で自分のやりたい事をやっていくと
責任感が自分に芽生えてくる。
生半可な所で終わらせたくないなとか。
自分がださいと思う自分でいたくないなとか。
自分が自分の意思で選んだという責任感。
だから私は
・本当にやばい、すごいと思える人や物事
・面白そう!!と直感で思う人や物事
・私にはない!できない!と思える人や物事
以外は全部ぶった切っている。
なんとなくのご縁で続いている内容というのは
打ち合わせの内容も出来上がったものの内容も人間関係も
全てにおいて靄がかかっているような内容なのだ。
ばっさり言い切ってしまうと
ぬるい・ださい・みたいな感じである。
それを作っている本人も、やばい!と思って作ってなさそうなのが
一緒にいて伝わる。
ださいぬるいと思いながら付き合うのも相手に失礼だ。
人の話でいうと
偉そうな人や自慢話が多い人
過去の栄光ばかりを話す過去に生きる人
舐めてるなと思う人(私を、というよりも世間や他人を)
などは意識して一緒にいない、近づかないようにしている。
そして音楽や何かを一緒に行うにあたっては
半端な人、考えが甘い人
その人の匂いや信念を感じない人
とは関わらないと決めた。どんなに優しくて人が良くても。
それは私がそういう人が嫌いだから、じゃない。
自分のやりたい事との歩調が確実に合わなくなる人だからだ。
不和をきたす。それならば最初から明確に基準を設けて
そこを越えない人とは日常で関わらないと決めた方が動きやすい。
なので、ぬるいな、ださいな、考えが浅いな、信念がないな
惰性で言ってきてるな、自分の都合しか考えてないな
という人や企画の話は全部ばっさり切っている。
その結果、人と会う予定がほぼなくなった。
いかに今までの私がなんとなくでスケジュールを組んで来たかがわかる。
「シギは誰とも合わずに小さな世界で生きていく」と思われかねないので
それを否定するためにいうけれど
これは序章なのだ。
本章に行くために必要なのは、余白を作ること。
整理を済ませて空間を作っておく。
それは物・人・時間・全てにおいて。
その空いたスペースに、
自分が次のステージでいるべき人との出会いを受け止められるように。
両手に色々なものを持ったままでは、新しいものは持てないのだ。
だから私はほとんどのものを捨てていっている。
本当に必要だと思うことって、なんて少ないのだろうと感じる。
昔の私は「何かを手にするために何かを捨てるなんて
そんな悲しいこといわないでよ、もっとうまいやり方あるよ」と
思っていたのだけれど
今断言できる。何かを手に入れるためには選別が必要だ。
なぜなら人間はいずれ死ぬから。
死ぬのは100歳かもしれないけれど
こうして体を毎日アクティブに動かしたり考えたりできる健康な時間は
そんなに長いとは言えない。
その事実をしっかり心にいれながら生きていると
自ずと自分がすべきこと、すべきでないことがわかる。
けれど「仕事のために愛を犠牲にする」「愛のために仕事を犠牲にする」
というのはナンセンスだと思っている。
仕事と愛が離れていては、人間を生きるという豊かさに欠ける。
仕事はひとりでできるものではないから、そこには相手への愛がある。
プライベートが安心できる愛があるから、仕事で戦っていける。
愛と自分のすべき事とは相反しないものだと思っている。
何を、誰を愛しているか。何を実行していくのか。
自分が選別したのだという責任を感じる。
それが自分を生きているという実感に繋がる。