日本に住んでいると宗教と馴染みが薄い。
海外はもっと違うのだろうか。
中国へ行ったけれどそこはよくわからなかった。
もちろん日本でも何かの宗教についてる人もいるだろう。
どんな宗教でも私は無知なので否定するつもりはないが、
私は生まれてから一度も勧誘されたことがない。
信心薄そうに見えるのだろうか。
それとも我が強そうに見えるのだろうか。
大学で宗教学の授業をうけたことがあるが、
興味が薄かったのかあまり頭に入っていない。
母方のお墓が市内にあるため、
毎月お墓参りに行っている。
私はトイレの掃除とお墓の掃除が大好き。
心がすっきりするから。
お正月の日は
「今年も音楽頑張ります」と
終戦の日は
「少しでも人のためになるように頑張ります」とか
神社へ行った時はそんな事を心の中で呟いている。
誰に向けてだろう?
あまりに自然な行為だから、誰に向けてなのかも考えていなかった。
私は典型的な日本人なので、
仏教と神道をその時々づかいしている。
クリスマスもする。
同じあほならおどらにゃそんそん系日本人なのかもしれない。
ハロウィンデビューはまだしていない。
初詣に行く日本人の数が大量すぎて外国の方の中には
脅威に感じている人がいるという話しをきいた。
「一年に一回尋常じゃない数の人間神社行きすぎじゃね?
あいつら本当はめちゃくちゃ信心深いんじゃね?」といったところだろうか。
日本の人からしたら「まぁ…そういうものだから…おみくじ楽しいし」という理由で行っている人が多いだろうから、その話しは面白かった。
脅威論の外国の人が聞いたら
「えぇなにそれ…ちょっと…もうちょっとちゃんと考えてよ…」
と思われそうだ。
でも裏を返せばそれだけ当たり前に存在しているということでもある。
昔読んでいた神道の本で、「神道は強制しないから水のようにいつまでも日本人の生活に馴染み続ける宗教」と書かれてあったのを今でも覚えている。
確かに、未だにずっと当たり前のこととして存在している。
強制しないというのはある意味ではすごい強力な力を秘めているのかもしれない。
「面倒くさいなら学校来なくていいよ」と言われたら私はさぼる日数が減っていたのだろうか…減っていない気がする。
神様という存在は私の中には馴染みが薄いけれど、
亡くなった人の魂はずっと存在しているような、
そして海とか山とか、
大きな自然を見た時の畏敬や畏怖の念のようなものはわかる気がする。
お葬式でも亡くなった人に語りかける場面があるのは、
その人の魂に語りかけているということが自然と働いているからなのだろうか。
いずれにしても日本は摩訶不思議な国にうつるのだろうな。
そこに住んでいる私でさえ、この土地の歴史や宗教には無知な部分ばかりだ。
古事記は読んだけど。
気持ちを祖末にしていない事はよくわかる。
いない人にむけて話しかけることは、
私にとっては自分との会話のようなものだ。
こんなことがありました。
これからも頑張ります。見守っていてください。
そんな風に。
そもそも、石や海などの自然のもの、八百万の神というものが自然と
日本の人の心に入っているから、
「お天道様が見ているよ」という言葉もあるのだろうか。
と思って調べたらただの太陽の話しでは終わらなさそうだ…
いろんなことを学ぶって面白いな。
知らないことだらけだ。
しかしもう眠ろう。
ここで色々調べて興奮したら眠れなくなってしまう。
私は土手教でも作ろうかな。
土手での遊びと土手の生き物を愛する人達のための宗教。
土手でフリスビーとキャッチボール、川でカニとりをしたあとは、
のびろをとって八百屋さんごっこをする。
しかし教祖である私は土手にはえるブタクサに苦しめられるのであった。完
ぐんない。