人を裁く気持ち

誤解を恐れなくていい。

世間じゃ宗教と政治の話はしづらい。

でも君がしたいなら好きなだけ君の思う話をしたらいい。

なんだっていい、どんなとがった思想でも自由だ。

その方が私は楽しい。

私の考えと正反対でも一向に構わない。

他人なのだから、全てが同じな方が不思議だろう。

 

今日は海外から来てる方々とお話をした。

アメリカの大統領の話を、片方はネガティヴにし、

片方はポジティヴに話をしているのを楽しく聞いていた。

いろんな意思があることが楽しい。

それがコミュニケーションの醍醐味。

 

例えば日本にいると、中国や韓国の問題に過敏に反応する人がいる。

日本だけにいると、中国や韓国の人はみんな日本が嫌いなんじゃないかと感じてしまうが、

日本に対して友好的な人達も確かにいるのをこの肌で知っている。

 

国籍だけで語れることは少ない。

同じ国でも相容れない人は沢山いる。

自分の手におえない距離の出来事に必死になるあまり、

目の前の事実がおざなりになるのは切ない。

ただの妄想や想像で恐れるよりも、

この目や手で知ったものから想像を広げ抱きしめたい。

 

みんな平和にとは言わない。

喧嘩してる姿も楽しい。

 

でも人には歴史があり、

歴史をもつ人が死ぬ事は悲しい。

歴史をもつ人は特別な人のことじゃない。

あなたや私や周りの人すべてに歴史がある。

 

のぞまれて産まれてこなかった人間もいる。

でも、大人になるまで生きてきたということは、

赤ちゃんの頃に育ててくれた人がいるということだ。

 

私も例外ではなく、大切に育てられてきた。

私はいつどうやってる死ぬのだろうと考える。

死ぬ事は怖くない。(いや、でもジリジリ死を意識するのは怖い。。

とげとげの壁がめちゃ迫ってくるとか。。)

私の命なんて、そんな大それた存在ではない。

 

私がいつか死んだら泣く人はいるかな。

あいつ死にやがったと怒る人はいるかな。

三島さんは、死んだあとにその人を悪く言う人の方が本当の友達かもねと言ってた。

自分が死ぬより自分が出会った人達が死ぬ方が辛い。

私は弱いな。

 

自分と自分の周りが世界の全てじゃない。

そのさらに向こう側にとてつもなく広がる世界がある。

でも世界がどんなに広いといえど人の感情は似たようなものではないかな。

 

自分の気持ちを押し殺して、

自分が思ってもいないことを笑いながら頷くのはストレスだ。

それが社会なのだと自分に言い聞かせるのもストレスだ。

でもその波風の立たなさに麻痺していく、自分の気持ち。

その気持ちは、どこへいってしまうのだろう。

夜の電車に乗るとそれがよくわかる、人の表情から。

 

思ったように思ったことを言えて、

伝えたいように伝えられたら。

そんな当たり前のことを、

子供から大人になる間にぼろぼろと落としていく。

苦い経験から。人を思いやる気持ちから。

自分を殺して生きる人々。

 

正直に生きる人が憎たらしくなり、

出る杭を打つようになる。

私は我慢しているのに、と。

自分の守った世界を壊されるのが怖い。

怖いと思うと、脅威に思うようになる、

新鮮な出来事が。他人が。

脅威に思うほど世界は輝きを失う。

 

どうして正反対の気持ちでいることが恐ろしいのか。

正反対を敵だと思うのか。

どうして自分が正解だと信じられるのか。

「それは信じるに値する」なんて傲慢に言えるのか。

 

朝から晩まで働きづめの君に

こんな事言っても、

ただ毎日を生きるので精一杯だと答えそうだ。

 

そこに幸せがあるのか。

違うか。

むしろ幸せがあるから、

そんな毎日を生きていくのだろうか。

肉眼では見えない星のように、君の気持ちは謙虚で美しい。

 

正しいも間違いもなくていい。

どんな国に生まれても、どんな生き方をしていても、

どんな人を愛していても、なんだっていい。

なんだって、思うことを話したらいい。

誰かは否定しても、私は楽しく聞いていたい。

裁く気持ちが、発想を乏しくさせるんだ。

そんな呑気な私を少し憎たらしく思うかな。

今日は寒いな。